日記を書く場所の再考

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

現状、ここ (はてなブログ) で日記を書いていて、日記をオンライン状態にしておく意図というのは、日記というのはとても質の高いコンテンツであるから、質の高いコンテンツでインターネットを満たしてインターネットをよりおもしろくしたい、というところである。

質の高い、というと語弊があるような気もする。コンテンツ性が高いというべきか。

古来よりいろいろな文化人が日記を書いていて、それが後世の教科書に載っていたりするのだからおもしろい。

別に未来の教科書に載りたくて書いているわけではないけれど、今も昔も、日記は別の大きなマスメディアでは取り扱われることのない、ともすれば些末なものごとが記録されうる。

たぶん、これはずっと変わらなくて、初期のインターネットが目指していたマイノリティとしてのメディアみたいなものになれる可能性を日記という媒体はいまでも秘めていると思っている。

しかし、日記がほかのマスメディアと同じように強く露出するようになってしまうとそちらの性質に引き寄せられてしまってやがて日記としての性質を失ってしまう。

つまり:

  • 独立している
  • 能動的に読む必要があること == 受動的に読むことを阻止
    • フィードはいらない
    • その他、受動的な情報の収集方法 (および、それを助ける仕組み) はいらない

どちらも情報を得る人間が自ら制御すればよいと思っているけど、そうはいってもそういうことができない人によって迷惑を被りたくない。迷惑を被った結果、嫌な気分になったり、あまつさえ自分の思想・言論を阻害されたくない。

また、多少なりとも露出することによって、情報を火種に発生した一切の責任は発信した人間にあると考える人もいる。めんどうな責任を押しつけられるのもいやなので、やはり積極的に露出されないよう自分でコントロールしたい。

ここまで書いて1年前に誰かが同じようなことを言っていたことを思い出した。最初に読んだときにもやはり全体として頷ける内容であるなあ、と思っていたけど、一方で残念だなあ、と思ったりもした。

残念というのは、けっきょく書く人間以外のあらゆる人間が関わると日記が失われるということについてだ。日記というものの性質からして、他人を関わらせないということも、書く人間のこころがけとして大切なのかもしれない。

情報を発信する立場と情報を受信する立場の不均衡が未だに残っている状態でありながら、むしろその不均衡に便乗したビジネスモデルに則ったウェブサービスを提供する人たちばかりである、というのがどうにも残念だと思う。