人生のプレイリスト

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同僚が「自分の人生のプレイリストを作ってみた」っていう話を聞いて盛り上がったので自分も作った。

細かいレギュレーションとかはなくて「自分にとって印象的な音楽」くらいの共通認識でやろうというかんじ。

自分は:

  • その時の自分にとって新しい世界を開いてくれた曲
  • 純粋に音楽との対峙を重視する (聞く音楽の傾向が変わった・広がったとかがOK, 学校帰りによく聞いていて懐しいからはNG)
  • 曲数は15曲くらい、多くて20曲
  • Spotifyにある

……というルールで作った。

曲は:

  • 春の祭典 - イーゴリ・ストラヴィンスキー
  • 赤橙 - ACIDMAN
  • シバの女王ベルキス - オットリーノ・レスピーギ
  • 展覧会の絵 - モデスト・ムソルグスキー
  • 決戦 - 浜渦正志
  • Sergio Echigo - 凛として時雨
  • ラ・ヴァルス - モーリス・ラヴェル
  • J-E-N-O-V-A - 植松伸夫
  • IGGY POP FUN CLUB - NUMBER GIRL
  • シャンデリヤ - thee michelle gun elephant
  • Previous Notice - 中川幸太郎
  • 傍観 - 凛として時雨
  • flower - TK from 凛として時雨
  • 消ええらるる世界 - nuito

入れたかったゲームの劇伴もけっこうあるけれどSpotifyで配信されていない曲だったりして諦めた。

こうしてみるとギターロックとクラシックで生きていた感がある。

 

『展覧会の絵』は小さい頃に聞いた気がする。その当時はクラシックはやはり退屈という印象が強かったので色彩に富んだ曲想やオーケストレーションに感動した。ラヴェル編曲版のポケットスコアを買って何度も読み返し、どうしたらこんなにカラフルなアレンジができるんだろうと楽器の組み合わせなどを盗もうとしていていた。

後年になって原曲のピアノ版を聞いてまた魅力を再発見できた。

 

ACIDMANは当時聞いていたメロコアとかエモっぽい路線とは違う大人っぽいジャジーな雰囲気があってこういうロックもあるのかーと刺激を受けている。

よみがえる内田ラレー号

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6年前に買ったロードバイク・内田ラレー *1 号をがっつり整備しコンポーネントをいくつか交換した。

 

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車が欲しくなり教習所に通っている最中、ふとロードバイクがけっこう汚れていることに気がついた。

最近ペダルが重い気もして走っている時の楽しさも減った気がする。単に体力が落ちただけだと思ったけど。

長年乗っているロードバイクもきちんとメンテできないのでは、高い買い物をして車に乗っても同じことになるのではないかと思い、まず掃除することにした。

 

家の掃除用に買ってあったウタマロクリーナーが中性で油汚れにも効くのでパーツクリーナーを新たに買ったりはせずこれを使う。

いつものショップタオルを使う。

 

一通り掃除をしたりバラしたりして、チェーンが伸びているから変えたいな・どうせ変えるならディレイラーを変えたりして走り心地を変えたいな、と思うようになってきた。

結果、以下のコンポーネントを変えることにした:

  • リアディレイラー
  • チェーン
  • カセットスプロケット
  • ブレーキ

付随してブレーキワイヤーとシフトケーブルも買い足した。

これを書いている時点ではブレーキは交換していない。

 

足回りで街乗りでも実用上意味があって変わった実感が得られるところを、と考えてリアディレイラーとブレーキを変えることにした。

ホイールも考えたけれど普段使いではあまり違いがわからなさそうなのと沼が深そうなので今回は見送った。

コンポーネント類は基本的に5つあるグレードの内、上位のものを選べば良いだけなのでさほど困ることがない。

 

元々4600系のTiagraと一部5700系の105で組まれていたので105〜ULTEGRAに変えた。

リアディレイラーだけ新品の在庫がどこにも見当たらなかったので105にして、それ以外はULTEGRAにした。

また、カセットスプロケットは11-28Tから12-30Tにした。街乗りとヒルクライムが多いのでローギアが広いほうが良かろうという見立て。

 

 

リアディレイラーを交換ついでに調整したおかげか、変速がばしばし気持ち良く決まるし漕ぎ出しに必要なトルクが減って軽快でめちゃくちゃ楽しい。

と、同時に今までごめんな……って気持ち。正直、買い替えようか悩んでいたけれど完全に自分が悪かった。

 

ちなみにコンポーネント交換を考えるにあたって今装備しているコンポーネントがどの世代のどのグレードを知る必要があり、メーカーのカタログを参照したのだけれども詳しい型番が書いておらずちょっと困った。

具体的にはTiagraの4600なのか4700なのか。画像と実物を見比べるとおそらく4600っぽいけど……というところでどうしようか悩んだけれど、ふとStravaにログインして調べたらきちんと世代まで含めてコンポーネントの型番がメモされていた。

Stravaにはロードバイクのコンポーネントの型番などを入力する機能があり、使いはじめた日付と走行記録を突き合わせてこのコンポーネントで何km走ったという情報が見れるようになっている。

過去のまめな自分は調べてちゃんとメモしてあった。しかも途中で変えたタイヤとかも丁寧に記録してある。

自分の凝り性な性分に助けられてちょっとおもしろい気持ち。

*1:声優の内田真礼 (まあや) にかけた

騒やかな孤独

よくコロナ禍以降の気軽に外出できない、他人と接触できないという状況を指して「日常が失われた」「もうあの日常は戻らない」といった表現がされることがしばしばある。孤独が強化されたとも。婚姻や出産件数の変化が絡めて語られることも多い。

人それぞれにとって常が何であるかは違うであろうことは前提として、それでも自分は社会生活の本質が変わったわけではなくむしろ表層が取り払われたような気がしている。

 

本来、他人とのあいだになんらかの壁がありあらゆる活動において距離があるのが自然で、隔てるものが限りなく小さい関係こそが特別であり親密さの証だとされてきた。

むしろ今までその親密さの価値が損われども検められることがなさすぎた。少しばかりの繋がりで安心してしまう。

その薄く広く覆う膜のような関係性で孤独に蓋をしていた人たちにとっては、今の状況は確かに地盤を失ったようなものかもしれない。けれども、この感染症を過去のものとできたとしても日々の底にある孤独を克服したことにはなりえない。

 

久しぶりに会う知己を前にして、以前は盛り上がれた話題で同じように話せるだろうか、自分の考えが過不足なく伝える語彙を自分は持っているだろうか、変わってしまった・あるいは変わっていないお互いを前にして無意識の内に失望してしまわないだろうか、好きだった誰かを前にして冷めた気持ちに気付いてしまわないだろうか、とかそういった葛藤はきっと10年後も変わらずつきまとう。

何も磐石なものがない中で暮らすことに恐しさと嫌気を抱くことは変わらないんだろう。

 

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若者たちの孤独のありかた

「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者たちは、インターネットを通じ対面でないコミュニケーションを使いこなし、常にたくさんの誰かと繋っている環境に身を置いている。しかしながら、対面でないコミュニケーションは、対面のそれに比べ非常に情報量が制限されているので、お互いの本心を、その底のほうから伝えあうには不十分である。すると、たくさんの誰かと繋っておきながら、心の底からの思いを誰にも話せない、薄くて広い、賑やかな孤独を味わうことになる。

この賑やかさのせいで、普段の生活では孤独感を忘れがちであるが、自分はそれを良いと思っていない。深く強い孤独が人間生活であるということをちゃんと認識すべきであるのに、賑やかさで紛らわしながらの浅く弱い孤独に無自覚であるというのは、直感的ではあるが、大変に残念なことに感じるからだ。

そういう思いの中で、自分は、見た人が「孤独」を認識できるようにという思いを持って、写真を撮った。

無人のポートレイト

ふと視野を広げたときに眼に写りこむ人がいる。誰もいない場に人の幻影を見るというのは、例えばそれが懐しさに起因するのであれば、記憶の中にある風景でしか幻影は現われないはずである。しかし実際には、全くの新しい場所でも、ないしは全くの新しい場所のほうが、幻影は現れる。新しい場所のほうが、自分に関係しているものが少ないからだと分析し、自分はこの幻影は孤独の射影だと考えた。

作品は鑑賞者の思いの入れ物であるべきだと考えている。この作品を見て、鑑賞者が自分の作品を作ろうと思えるようなものを作りたかった。写真の中にいる幻影は写真には写りこんでいない。それは鑑賞者の中にあるからだ。鑑賞者にはそれぞれの幻影を写真にあてはめ、自分の追いかけている幻影の存在に気付いて欲しいと考えた (すなわち、自分の孤独に自覚的になること。孤独は作品制作の第一歩であると考えるからだ)。自分としては、人を撮っているつもりであるから、人が変数になっているポートレイトのつもりで撮影している。

写真は絵画とは違い、必ず、実在する風景をそのまま写しこんでいるから、鑑賞者は見た幻影を単にファンタジーとして片付けにくいだろうと考えた。これらが写真である意味は、鑑賞者に自分が感じた思いに対しいい訳をできるだけ与えないためである。

そこに誰かがいた #1 - 2011