デザインや設計の力のようなものを信じていて、それを感じていたい、という気持ちが強くある。
なので、Web サービスにしてもアプリケーション・ソフトウェアにしても、「手になじむ道具」という意識をもって扱うものはごく限られていて、だいたい芸術品を鑑賞するような心持ちで使っている。そういう意味では、少なくとも自分にとって世の中の多くのプロダクトは「道具」ではないし。
芸術品はそれに宿る精神や哲学に則り、自分を変えながら接するもの。道具は自分の精神や肉体にあわせて変化させるもの。
アプリケーション・ソフトウェアや Web サービスはその性質からして比較的ユーザ・インターフェースの変更が頻繁に行われやすい。
多くの人はその変更に対して最初は反発を覚えがちであるようにみえる。自分もそういうことはあった。最近は世の中の人々はかくもいろいろなアプリケーション・ソフトウェアなどに対して道具であることを期待するのだなあ、と感じるときが多い。
どうして、自分の手になじむ道具がそうやすやすと現れるだろう、という楽観的な考え方を持てるのだろう。
見ず知らずの人間が手がけたものが自分の手に馴染むなんてことを、どれくらいありふれたことと考えているのだろう。
インターネットで人間の狂気を垣間見ることができる。狂気と芸術は似ている。ただ、それを前にしたら自分は立ち尽すだけだ。
人々の狂気を見たい。気のふれた人々がなにかの因果でソフトウェア技術を手にして、狂ったアートをつくり世を狂わせるのを見たい。みんなおかしくなってしまうなら、それが世界を変えるということだと思う。