最近、ずっといらいらしていてほんとうによくないと思っていて、週末にどこかへでかけて落ち着かせる、という生活が確立されつつある。

ここ何週間くらいかはうまくいっていたのだけど、先週末は失敗した。

ひさしぶりに南禅寺に出かけてみよう、と思ってでかけたのだけど、これが最悪だった。

まだ観光客でごったがえしていて、落ち着くどころではなかった。まあ、それでも南禅寺は多少我慢してでも見る価値のあるところだと思っているから、ちょっと中に入ってみたけど、ほんとうに人が多くて、とにかくなにもかもが台無しだった。

大声で騒いでいる人もいて、そこにあるものを前にして声をあげることしかできない、そういう風にしか対面できない、という不誠実さのようなものにほんとうに辟易した。

帰りは気晴らしに歩いて帰ることにして地下鉄の駅の入口を見送ったところで雨が降ってきて散々だった。

それでも小雨がぱらぱらと降る中を歩いていたときのほうがずっと気持ちは落ち着いていた。

「これ以上悪いことは起きない (からあとは這い上がるだけだ)」みたいな考え方、危険だと思う。

困ったこと、つらいことは、たいてい底が見えないし、底が見えていると思うのは、無根拠な楽観視か、自分の目が悪いだけだと思う。

状況の観察を楽観的に行っても危険なだけでなにもよいことがないと思う。悪いこと、と言うが、要するに絶望が心身に負担をかけるのだ。絶望というのは、まさに希望との相転移で、期待していたよりも実際は低いフィードバックしか得られない、ということなのだ。「これ以上悪いことはない」というのはまさに (安易な) 希望じゃないのか。

世の中には自分が考える以上の絶望が満ちている。常に悪いことは存在しているのだ、という警戒心を抱くにこしたことはない。

そういうことを考えながら歩いていた。そのあとはなにをしたのか覚えていない。どこかでなにかをした気がする。それ以上のことを思い出せない。

写真を撮ろうとして嫌な気持ちになるできごとが多すぎる。けど、それに反して最近は写真を撮る、という行為に対するモチベーションが上昇している。

前回、連休に京都御苑にでかけたときはよかった。よい写真が撮れたと思うし、瞑想めいた体験でもあった。ゆっくりと時間をかけてなにかと対峙する、という機会を得ることができた。

そういうよい収穫もあった一方、ここ最近の自分はあまりにもものごとに正対することを忘れていた、と反省もした。斜に構えず、もっとまごころをもって向き合おう。