西尾維新、大人

最近、ずっと西尾維新の物語シリーズを読んでいる。このシリーズは細やかな言葉遊びにまみれた中で、登場人物ひとりの内面をフォーカスするという、とてもシンプルで丁寧な作品で、風呂敷を広げすぎない、広げた風呂敷もきちんと短いスパンで回収されるという、いろんな意味で読者に優しい作品でとても好き。

あまり読書家だとは言えないけど、それでもそこそこ小説だとかを読んできた中でも二度、三度と幾度も読める作品というのはなかなかなかった。シリーズが佳境に差し掛かって伏線を回収しにかかっているからもう一度読み直そうという気持ちになったのは確かだけど、それだけでは何度も読めない。

やっぱり物語という大きな単位だけではなくて、文章という単位でもおもしろくて、何度も何度も読んで楽しくなるから、読み返そうという気になるのだとおもう。

そう、文章、言葉遊び。ずっと読んでいるから、だんだん言葉遊びに敏感になってきている。こういうすぐになんでも影響される幼い (あるいは若い) メンタリティをまだ持っていることに安心している。

親に迷惑をかけずに自立して生きていこうという気持ちはあるけど、あくまで「自立した子ども」になりたいだけだって、大人になりたいわけじゃない。いろんな意味で自分はまだまだ子どもでしかないし、まだ子どもでありたいともおもう。

大人というのはなろうとしてなるものではなく、なるべくしてなるものなんじゃないかなあ、と漠然と考えている。その人が大人になるべき時というのが来たときに初めて大人になればよいのであって、その時まではずっと「子ども」でいてもなんら困ることはないような気がしている。人によってその時というのはまちまちで、だから人がすべきなのは、今すぐに大人になろうとすることではなくて、その時に備えて大人になる準備を整えておくことではないかなあ、とおもう。大人になることと、大人になるための準備をすること、近いようでぜんぜん違うのではないかな。