この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

はやく寝ないとと思いながらもぐだぐだインターネットをして2時になってああ6時間しか眠れないと思いながら床に就く日が続いている。ずっとくしゃみがとまらない。ダニのひどい部屋になってしまったのかとおもったけど目がすごくかゆいし花粉症っぽい。いつも家を出て歩いていって決まったところでくしゃみが出はじめる。規則的に身体がおかしくなるの異常っぽいかんじがする。インターネット、もっとおもしろくなるとおもうけど、いまはおもしろくない。前はおもしろかったか、というと、そうでもなくて、でもおもしろいインターネットのかたちは見えていて、それをもっと最大化したい、おもしろいインターネットをもっと大きくしたい。食べるものもずっとひどい、何も食べないよりはいいだろう、という気持ちでいるけれど、何も食べないよりほんのちょっとましである、というだけで、何か食べている生活の中では最低だとおもう。掃除もぜんぜんできない。掃除して誰も困らないし、誰も怒らない。自分や自分のものが汚れたりすることになにも感じられなくなってしまった。きれいに保とうという気持ちはずっとあってそうしてきたのに、いつのまにか折れていた、折れていたというよりしおれてしまった。本当はそうなりたくなかったけど、そうなってしまった、もう一度やりなおしたい、こういうことがずっとあった、こうしたい、とおもうけれど、気持ちが立たなくてずっとそのままで、そのまま死んでいくということ。もう折れたとかそういうものではなくて、もう死んでしまったのかもしれない。熱いお風呂に入りたい。去年、広島、尾道に遊びにいったときに泊まったホテルで、半年ぶりくらいにシャワーでなくお風呂に入った、とても熱くて、その日はとても暑くてたくさん汗をかいて夜になってもやっぱり暑くて、瀬戸内海に面しているから夏はそうでもないよと言っていたけれど、しかしじゅうぶんに暑かった、手持ちぶたさになって近くのジャスコとヤマダ電機を見てみた、海外旅行にでかけた人がマクドナルドを食べて、世界のどこにいても変わらない味がするの変だ、という話がおもしろかったことを思い出した、ことを思い出した、別に広島にきてまで見なくてもよかったとおもうけれど、どこにいっても同じなのだ、逃げるように、まるでぜんぜん知らないところに来たような気でいたけれど、まったく別の世界に来たようなつもりでいたけれど、しかしここも地球であり、日本であったのだ、そうでしかなかったのだ、同じように人間がいるし、同じようになにかがそこにあるのだ、たったそれだけなのだ、名前が違うとかちょっと建物が違ったりとか、それだけで、なにも、本当は、本質は、なにも変わらないのだ、何が変わればなにかが変わったといえるだろうか、なにが違っていることを期待していたのだろうか、なにが違っていてほしくなかったの、なにかを見ようとおもっていたわけではなくて、単に広島があるというから見にいっただけだった、広島を見た、というかんじはなかった、けど海はあった、海はこっちにはなくて、本当はあるけれど自分の中で大阪と京都には海がなくて、生活には海がなくて、でも滋賀県には海がある、本当はないけれど生活に海がある、海っぽいものがあって、海っぽく扱われるのならそれは海だから琵琶湖は海だし、淀川も海っぽい、鴨川は本物の川で、川以外のなんでもない気がする、川といったら鴨川みたいなかんじがある、北にひたすらいっても、南にひたすらいっても川っぽさが失われないのすごいとおもう、京都といったら鴨川だし、京都、イコール、鴨川という認識は間違いないとおもう、川が川っぽくあるというだけでとても価値がある、海っぽい琵琶湖、海っぽくてすごいけど、海っぽい湖とかどう扱えばよいのかわからないし、海っぽい大きさの淀川、海っぽいけどぜんぜん海じゃないから仕方ないので川というかんじだけれど、どちらも海でないのなら海っぽさなくてよいし、もっと琵琶湖は湖っぽさがほしいし、淀川も川としてわきまえてほしい、わきまえてほしいといったけれど、しかし川とはこうあるべきという意識に惑わされずにのびのびと淀川とは、と模索しているのはとても意欲的でよいとおもう、川っぽくないけど、川っぽさを究めてもよいことはないから、川でも海でもない淀川らしさを突き詰めてほしい、淀川の成長を見ていたい、阪急京都線の新駅開業、楽しみで、準急以下しか停まらない、ということらしいけれど、2020年あたりには淡路〜上新庄、下新庄、柴島が高架化されるらしい、京急と同じようなかんじになるらしい、4階立てになるのやばいかんじある、見てみたい、洛西口〜桂も高架化されるらしい、たしかにあそこらへんいつも踏切で渋滞しているし、 桂と西京極のあいだにある踏切、何度か事故が起きていて危なそうだし、路線がどんどん改良工事されていくの、早回しでビデオを見ているみたいでおもしろい、勢いがある、これから先、大阪や京都という街は自分にとってどういう場所になるのだろう、根をおろして第二の故郷となるのか、それとも仮の住まいで終わるのだろうか、正直に言って、こんなにこれらの街を好きになるとはおもっていなかった、想像だにしていなかった、自分はずっと北海道の人間で、北海道で終わる人間だと思っていた、そうでありたくなかったから出てきたけど、しかしこんなに容易く変わるものだとは、おもっていなかった、しかしよいことだ、こんなに好きになれる街、第二の故郷のような場所ができたのはとても喜ばしい、大阪も京都も大好きだし、ずっとこれらの街が移り変わっていくさまを見ていたい、たとえ住む場所が変わっても、これらの街に思いを馳せていたい、好きな街が増えて、思いを馳せる街が増えるというのはまさしく故郷が増えたようなもので、ほんとうに楽しい、もっといろんな街を見てみたい、好きな街を増やしたい、もっとおもしろいものを見たい、自分の想像力の衰えを痛感することが続いている、おもしろいことをしたいとおもって、おもしろいことができるように実現するための手段は積極的に手に入れてきたけど、いまになって肝心のおもしろいものを見つける目が欠けていることに気がついた、友達がほんとうに少ない、というより友達と認められる間柄の人間がほとんどまったくといっていいほどいないので、友達となにかする、友達となにか共有したい、という人たちの気持ちが汲めない、無理に汲む必要はないとおもうけれど、世の中の人間の多くは友達がいて、友達となにかしたがっている、うそっぽいし信じがたいけど、そのように見える、その人たちと特に仲良くしたいとおもわないし、その人たちになにかしてあげたいとおもわないけど、でもその人たちなにかおもしろいと感じる心はある、その他の心はないように見えても、おもしろいと感じる心はある、そのような人たちが何をおもしろいとおもうのか、何をおもしろいとおもうのかだけに興味はあるから、そういう人たちのことを知っていない、つまり友達がいて友達とわいわいしたい人たちのことがわからないというのは致命的である、という気がしている、友達を増やしたいとかそういうことではないけれど、とにかくそういった友達となにかしたいという人たちがなぜそうしたいのか、どうやってそうするのかあるいはそうしたいのか、といったことを知って、自分の中に蓄えた上で、自分なりに友達というものとの付き合い方のモデルを考えたい、なにかつくりたいという気持ちはあるけれど、おもしろいアイデアはでてこなくて、おもしろいものへの希求だけが高まって、しかしなにも生めない、という空回りのような状態にある、何かつくるためにプログラムを書くためののあれこれを手につけてきたのに、肝心の作りたいなにかが見当たらないの、滑稽、滑稽だけど、まったくおもしろくない、おもしろい人はおもしろくない人のそばにはいない、おもしろくない人間でいるとおもしろい人間の話がわからなくなる、いろいろ、自分に負担をかけないためにいろいろ捨ててきたりしたが、しかし、いまこのとき、踏ん張るためになにもかも捨ててきたのだとおもう、たぶん転換期というか、これ以上おもしろいものを求め続けられるかどうか、というふるいにかけられているのだとおもう、自分はこのふるいこそが、他の人間がこぞって頑張ってきたシューカツであるジュケンであったりといったシケンなのだとおもう、これを後にして本当に自分はシューカツやジュケンといった呪いから逃れられ解放され、そして新たなことができるようになるのだとおもう、もうジュケンやシューカツといったことはいやだ、いやだ、いやだ、ほんとうにいやだ、なぜかというといやだ、自分は頭の回転が遅いとか教養に欠けるとか愛想に欠けるとか性的魅力に欠けるとか話がおもしろくないとか、そういった評価を下されることは許せる、許せるが、自分が価値あるものと認めたものを、自分自身で生み出せないこと、自分の価値あるものを、他人から享受しつづけること、価値あるものを残せないこと、価値あるものを死なせることだけは、絶対にしたくないから、自分に価値はなくても、自分のあとには自分が価値あるものであるといえるものを残していきたい、自分のおもう価値あるものがずっと残るかどうかはわからないけれど、自分がどういったものにどういった価値を感じるか、それら価値を見出したものをどのようにして発見したか、それらを作り増やすにはどうすればいいか、これらの知識、方法、技術を少しでも形にして残すことができれば、自分は直接、それらの価値を生み出すことができなくとも、自分の残した知識、方法、技術らで後の人が作って増やしてくれるかもしれない、世の中が自分がおもしろいとおもったことで満たされればそれでよいから、おもしろいことが増えるためなら死ぬし、もちろんしかるべきものを残してから死ぬけど、自分がそれらを見れるかどうかといったことは重要ではない、とにかくおもしろいことが増えるかどうかだ、おもしろいことがあるというだけですばらしいし、おもしろいことがあるということだけが希望だ、おもしろいものが存在しないところこそ地獄であり、人は死ぬとおもしろいことを感じられなくなる、おもしろいことを感じられなくなるということが人の死であり、おれはまだ死にたくない、まだ発見できないおもしろいものを発見したい、おもしろいものは無限にある、無限にあるから死なない、死ぬ必要がない、でも死ぬ必要があると考えた人たちが肉体を燃やしたり埋めたりしているだけで、ほんとうは死んでいない、この人は自分と喋られるから死んでいない、というのはおそろしいとおもう、自分と会話できない人はみんな死んでいるということになりそうだけど、ほんとうは生きている、ということになっている、けど死んでいるという結論しか得られない、会うたびその人が寝ていて微動だにしないけど、まわりの人は生きている、寝ているだけという、でも喋ったことも動いているところも見たことはない、けど生きているということにする、というのもおそろしい、動いているかどうかではなくて、おもしろいかどうかで生きているか死んでいるかを考えればよくて、おもしろくなければみんな死んでいる、みんな死んでいるということになっても問題ないとおもう、生きている状態である必要がない、