みえているもの

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

写真に興味をもちはじめて、自分の「好きな写真」がある程度は説明できるくらいにはなった。実際に撮ることは少ないので、大した話じゃないんだけど。あと、アニメの演出も意識するようになって、映像の見え方を意識するようになってきたとおもう。
幼稚園の頃から眼が悪くて眼鏡をかけているので「よく見えない」のがあたりまえであり、眼鏡という特別なものを身につけることで「よく見える」特別な世界を手に入れることができる。眼鏡をかけるようになって15年以上になるけど、いまだに眼鏡は異質なものだし、とても身になじむものではない。使っている眼鏡の良し悪しというより、おれの眼鏡に対する印象みたいなものなのだとおもう。
だからいつまで経っても眼鏡をかけていない自分が本当の自分なんだ。頭の悪いキャッチコピーみたいだが、そうとしか言えない。よく見えない、というのも相対的なものでしかなく、眼鏡を外して裸眼にある程度慣れてから、眼鏡をかけると「見えるようになった」と実感できる程度。
裸眼で過ごすにしても、数分でその視界に慣れるし、「よく見えない」ものだとおもって諦めて周りを見ればなにも困らない。よく見えない目で周りを「よく」見ようとするからいけないだけだ。よく見えない目なので、なんでもちゃんと見ようという気にならない。視界に映像として映っているが、頭が理解しようとしていない。理解できるほど鮮明に見えていないから。
眼鏡は嫌いだ。寝転がって漫画を読もうとすると眼鏡は邪魔だし、自分は遠視なので凸レンズの眼鏡をかけているのだけど眼が拡大されるので、それでよく笑いものにされた記憶があるので、やっぱり眼鏡は嫌いだ。眼が大きくなることを知って眼鏡をおもちゃにしはじめると、眼鏡を奪って叩き割りたくなる。
視界をぼんやりととらえる癖がついているので、写真などのピントに鈍感だ。SLRのような被写界深度の浅いもので撮影した映像のように、ピントが合っている範囲が極端に狭い映像だと見分けがつかないこともないが、そもそもピントがどこにあっているかということを意識する習慣がない。合っていないピントを合わせようという習慣もない。合わないものなので、そもそも合うはずがないという諦観もあるのかもしれない。
それほど重篤な遠視ではないけど、記憶が不鮮明なほどに幼いころからのことなので根強い先入観のようなものなのかもしれない。
これから、ちょっと見ることについて、意識を傾けてみようかな、とおもいはじめた。