この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

あーだめだめ、こんなんじゃだめ、楽しいことを考えます。

先週は宇治に出かけた。京阪宇治に用事があって時間があったので三室戸で降りて宇治川の河川敷を歩いた。久美子とあすかゾーン。

6月中旬なのに涼しく乾いた風が吹き付けて快晴で、今ではないかんじがしてどうにかなりそうだった。

こうやって同じ場所の違う季節を知ると、自分が過ごしたいつかの時間を別の場所で過ごした誰かのことを考えてしまう。

自分が過ごしてきた二十数年とは違う二十数年を手に入れた人のこと。

それを羨しいとかそういう風には思わないけれど、どうあがいても自分が二度と手に入れることのできないものを他人が持っていることが、時々とても尊く思える。

「フィクション」とか「現実ではない」という言葉が嫌い。我々が認知できる現実なんてせいぜい自分ひとりぶんなのだから、自分以外みんな非現実だ。

だから同じ次元にいようが小説の中であろうが、他人ならみんな自分の現実にいないし、だったらそんなもの言葉で区別する必要なんてないよ。

これって楽しいことなの? 少なくとも自分ではない誰かに後ろ暗い気持ちが向かないだけずっと楽しいよ。

自分からは届かないなにかがあるということを時々実感して思い出すたびに、届かないそれらに近づいてみようと無謀になれたり、手の届く自分の中を片付けてみようと思える。それって普段している自分の身の回りの整理整頓であったり旅行であったりとかわらないと思える。

自分の知らない土地にいくように、自分の知らない他人に触れてみる。僕は北海道と大阪と京都にしか住んだことがないけれど、生活の拠点にするまでではないものの過ごしてみた街はもっとある。

そういう風に、誰かの中に引っ越したことは数えるくらいだけれど、でもお邪魔したことのある誰かはもうちょっといる。

Google Mapsでロシアの北極圏を見ると他人が恋しくなる。こんなに厳しく遠いところでも人は住んでいるのだろう。

自分の知らない場所が広がって地図の空白が広がるほど、それを埋めてみたいという気持ちも募る。

一生かけても地図は埋まらないだろう、だからこそどの空白を残してどこを塗り潰すのかを考えるのが楽しいんだよ。