- 内省
- 着想
- 共感性
- 原点思考
- 学習欲
ストレングス・ファインダーはこういうかんじだった。高級実用占いってかんじがする。
あなたはこういう性質なので、それをいいかんじにのばすにはこういう風に行動するといいですよ、っていうレポートがもらえて実用できそう。
しかし普段生活していると、自分の至らない点にばかり気がつかされる。そしてそれが足りないばかりにいろいろつらい目にあったり、惨めな目にあっているような気分になる。
ステータス5項目マックスです、みたいな完璧な人間にはなれないだろうけど、でも自分の特性はひどく歪な気がしている。もうすこしバランスよくしたほうがいいんじゃないか、そのほうが穏やかに過ごせるのではないか。
あと、とにかく褒める調子なので訝しんでしまう。日常生活でここまでいいように言われたら、下心があることを疑わざるをえない。
『共感性』の項目では、受け止めた感情を溢れさせないよう一日の終わりにはためたものを解き放ってあげましょう、と書いてある。
なんとなくなにかが溜まっていく自覚はあるけど、目に見えないのでそれらが溢れそうなのか、まだ容器に対して余裕があるのかわからず判断しかねる。
そもそも解き放つべきものなのか、という疑問もある。
自分のものとして受け止めて吸収すべくして溜めたものを、また野に放つというのはどうにも腑に落ちない。綺麗だと感じて集めた小石は、それがただの小石であると気付くまでは手元に置いておきたいだろう。
自分がどうしたらいいのか、なんとなくおぼろげな像はずっとあって、ただそこに向かうために納得できる材料がないのだと思う。
納得とかいいので、とりあえずやったらよさそうなら深く考えずにやったらいいという気もするが、一方でいま自分が悩んでいること、困っていることというのは、本当に問題なのか? という疑問もある。
たとえば、利害関係なしに腹を割って話せる友達が周りにいない、という悩みがあったとして、それって問題なのか、と思う。
腹を割って話せる友達が周りに欲しい、というのはなにか別の問題から生じた解決策を求めて生まれた欲なのではないか。だとすれば、自分は何を友達に話したいのか。
……とか考えだすときりがなくて、一体自分は何に悩んでいるのか、とか。考えている時間ばかり長くなって、でも特に何も生み出すわけでもないので、ただ無益な時間を過ごしたという脱力感が残る。
よくはないけど、どうしたらいいのか。だんだん腐ってきているけど、それすらもどうでもいいとさえ思える。だんだん香り立つようになってきた梅を見ていると、こうやって枯れて腐っていっても、いつか季節が巡ったらまた生まれ変わるんだろう、だとすればいまこの瞬間の悩みとか苦しみとか閉塞感は瑣末なことで、いずれなにもかもなくなって消えるのだったら。
これは老衰で、であれば抗うことなく受け入れて、また次の穏やかな時を待つのもいいのではないかな。そんな風にも思う。