高校生のころに大学ノートに書いていた日記には、毎日のように好きな子とのことについて書いていた。
その子の名前はそのまま本物が書かれていた。誰にも見られないものだったからだ。
でも、こうして Web に置いてある日記には、「好きな子」という曖昧な言葉に置き換えられている。それは致し方ないし、自分は納得してそれを受け入れているけれど、やっぱり誰かが好きな時にやりようのない言葉を書きたかったら、その人の名前は書くべきだろうと思った。
好きななにかの名前をただ書くだけで、なんとなく嬉しくなる。テストの回答用紙の裏の余白に「凛として時雨」と書いたこともある。
反対に、嫌いなものについて書くときは、むしろこうやって Web 上で書くように抽象的な言葉や言い換えをすべきだろうと思う。それは誰かに見られているかとは関係なく、嫌いなものへの気持ちを必要以上に肥大させないためにだ。
名前を認識するということは、存在を認知するということで、正負関わらず気持ちが強くなると思う。
言霊信仰の一言で片付く話のような気もする。