この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

いつかお気に入りのなにかを好きでなくなるときが来るのかもしれない。

小学生のころは BUMP OF CHICKEN が好きだった。今は iTunes のライブラリに彼らの曲は一曲も入っていない。

大嫌いになって憎くて仕方ないとか、そういうわけではなくて、ただなんとなく離れて少し忘れているだけ。

高校生の頃に好きだった子の顔や声はだいぶ霞んでしまったし、離れてしまってしばらく経った今となってはあの時にぽっかりと空いた穴は塞がっている。あの子の代わりに何が入ったのかは知らない。

もうかれこれ8年ほど追いかけている凛として時雨だって、いつかライブのチケットを取ろうと躍起になることもなくなってアルバムも発売日に買うこともなくなるのかもしれない。

狭さと立ち並ぶ家々の風景がお気に入りである姉小路通だっていつか飽きるのかもしれない。

「なにかを好きであること」が他人と自分を隔てる壁だとはもう思えない。

では自分は一体なにでもって他人と自分を区別しているのだろうか。

案外、他人と自分なんてそう変わりはないのかもね。本当は目の前を歩いている白いコートの女性が「自分」だったり、いま MacBook で日記を書いている自分は実は「他人」なのかもしれない。

生活の連続が自分なのだとしたら、いまこの肉体が死んだとしても、同じように生活し日記を書く誰かが現れれば aereal さんは死ななかったりするのだろうか。

ひとは他人を見る目がないので、実はこの日記を3人の別の人間が書いている、ということに気がついていないのかもしれない。