この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

3人くらい自分を分割できないとやろうとしていることが実現できない。

自分にないものを持っている人たちに触れ合って自分の中に取り込もうとする人。

自分を切り崩して他人へ分け与えていく人。

自分というものを守っていく人。

まあ、おれは自分を守っていこうとするだろうけど、しかしそれで自分は守られるかもしれないが、他人になにか与えられるのだろうか?
あるいは他人に対してなにか分け与えるべきなのか? 自分だけが満たされればよいのではないのか? そもそも振り返る価値のある人間ばかりだろうか?

たとえば、半年ほどのあいだ通っていた大学の人たち、あの人たちはおれの昔のことは知らない。
たとえば、中学生のころ、部活で憧れていた先輩の名前をうっかり口にしたらその先輩の前で全裸にされたこととか、先輩に憧れていることを望まぬ形で暴露されたこととか、そういうおよそ理解の及ばないような人の気持ちに対する蹂躙を受けたこと、そのような下品な蹂躙を行った部活の人間に対して不快感こそ抱けど怨恨はないこと、むしろその事実を認知していながら黙殺しようとした人間のことを心底恨んで軽蔑していること、などなど。
そういう話は知らない。なにか偶然の重なった縁で繋がっているかもしれないが、偶然の重なった縁は偶然の産物でしかないからどうでもよい。とにかく知らないだろうとおもう。
なにも知らない彼らが憎い。なぜおれのことを知らなかったのか。なぜ気付こうとしなかったのか。なぜ無視したのか。本当は見ていたんだろう、とおもう。世の中の人間は常に見透かしたような態度でいて、ステータスとしてかざせるものならば自分が知っていることを誇らしげにかかげる、どうだ、と言わんばかりに見せつける。しかし、めんどうなこと、価値のないことには知らないふりをする。世の中の人間はなにもかもを知っているくせに、なにもかもは知らない、という素振りをとっている。欺瞞に満ちている。
あいつらだって、どうせ知っていたのだ。はじめまして、なんて言いながら、ああ、こいつはよくも部活であんな痴態を晒したあとで生きてこれたな、などといった目をしていたに決まっている。すべて知っていたのだ。
愛想よく笑うあの人たちだって、心の底ではおれのことを見下し、バカにしている。バカにすることくらい人間だからあってもおかしくないとはおもうが、自分がそうした「下品」な行いをする人間だと、認めたがらない。実際には、そうして認めず、なにもかもを騙すその態度こそが下品であることにほかならないのに。
そうやってなにもかも知りながら知らないふりを続ける人間たちに対して、「どうしてあのとき助けてくれなかったのか」と詰め寄るのは筋違いなのだろうか。本当に知らなかったのか? 実は一部始終を見ていて、心の中でほくそ笑んでいるのではないのか?
憎い。どうして一方的にバカにされなければいけないんだ。

しかし。しかし、しかし、だ。他人を許さないことも、また簡単だ。バカにされた、だから許さない。単純だ。しかし、スマートではない。永遠に続く。「許さない」と憤ったところで、バカにしつづける人間はいる。
ならば許してみてはどうか? 許す価値を見出すことはできないだろうか? おれが「許す」「許さない」という判断の秤から降りることで、コミュニケーションに発展はもたらされないだろうか? くだらない言い争いは終わるだろうか?
単に「やられたからやりかえす」というだけの動機で、許さないことを決めて殴り合いを続けるのは最も品のない行為のひとつだとおもう。そういうことはやめたい。
しかし、おれがやめたところで、その品のない行為の応酬をやめたところで、変わるのか? 彼らは、おれを、他人をバカにすることをやめて、いくらかはマシなコミュニケーションの土俵に立ってくれるのだろうか? 変わるだろうか?
期待したい、彼らも応じてくれる、自分は彼らを許せる、自分は憎しみのスパイラルを断ち切ることができる、すばらしい、よかった、そうなる、夢見ている。
おれが彼らを許さないことで新しい価値は生まれないが、許すことでなにか新しい価値は生まれるかもしれない。けっきょく新しい価値を生むことができても、それをバカにされてしまっては同じことだ。
彼らを信用できるだろうか? いやもとよりないことを知っているものを信じることはできない。彼らがほんとうに他人をバカにするような人たちでなければ、あとはおれが変わるだけだろう、そうだろう。