京都から在来線を使って出かける時の三宮に抱く最果てのような壁のような不思議な因縁あるいは呪縛めいた街もただの通過駅に成り果てた。
自分は何もしていないのに感慨なく障壁が壊される。今度はもっとゆっくり向かってみたい。
新山口は工業都市という風で重厚な船が並んでいた。思ったよりもつまらなさそうだななんて考える。降り立ってもいない人間につまらないだなんて値踏みされる都市の気分はどんなものだろう。
下関を越えて九州に入る。
トンネルを抜けてどれくらい風景が違うのかとドキドキして外を眺めてみると田園風景だった。
見覚えのあるようで違和感を抱いたのはなんだろう。
起伏があって夕時の斜めにさす光が田園に作るグラデーションなのか、緑の草を染め上げるまだオレンジに変わる前の光なのか。
こんなものかと思うも、同じ日本で光がこれだけ違えば大きくないかと思い始めた。
博多駅は東京と広島に雰囲気が似ていた。東京のようなモダンなサインが多かった。地下鉄の駅の雰囲気やマークは広島に似ている。
地下鉄は変なにおいがしなかった。
東京、大阪、京都、神戸、広島、名古屋、札幌と見てきて例を見ない。
天神のあたりは曽根崎のような道路の広さと梅田のような入り組んだ複雑な模様があった。得意じゃないけど見慣れたようで親しみがある。
かと思えば少し入ると危うさのある繁華街が広がっていて、大阪のような活気はないけど雰囲気が似ている。
ライブハウスの近く、交番のあるあたりに公演のようなところが突然あらわれてここだけいきなり飛び抜けて異常な場所だった。
秋の気配を漂わせる空気を忘れてセミが鳴いていた。熱帯植物園のような湿気のあるにおいが漂い、それらしい植物が枯れかけていてずいぶん荒れていた。
時間がなくて何も見れなかったし、何も食べられなかったから、また訪れたい。