この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

お金を稼いでくることがアイデンティティであり自尊心であり虚栄心そのものであった人は、脱サラに失敗して収入が半減 (もっと?) してからいよいよ人間性に綻びを見せるようになった。そもそもいつまでもいつあでも虚栄を張って、それでなにか関係が築けるわけがないのだ。

とはいえ、その姿は深く突き刺さっている。お金に困窮すれば人は人でいれなくなる。お金がなくなったから人が去るのか、人の前から去らざるをえなくなるのか、どちらでも同じことだ。

世の中の仕組みはまだよくわかっていないが、一個人としての誇りや主義主張は、共同体としての会社とは相容れないものであると考えたほうがよさそうに見える。そこらへんに転がっている美談だって、単なる一面であって、それを切り取って美しいものとしてしまえば、それ以外のすべてを切り捨てることになる。


働いてみて思うのは子をもうけるということは途方もないということ。いくらでもお金がかかるし、時間もいろんなものも折衷しなければいけない。自分がどうにかできる範囲のものごとをうまくやれたとしても、その先の周りはこんなふうである。地雷原みたいな中を生きていかなければいけない。先のことなんてわからない。わからないなりに行き先の暗がりばかりは見える。

10年後、20年後、50年後、そしていつか死ぬときまで、少しでも生まれてきてよかったという気持ちが、こんなところには来たくなかったという気持ちに負けないだろうか。

ぶち壊してどうにかしてしまいたいものばかりだし、自分さえどうにかなりそうだし、大きな声をあげて幼稚なことは叫びたくなる。


「減衰」を「美しさ」と捉えることだけは絶対に許したくない。

とはいえ世の中のいろんなものが減衰している。程度の問題だ。写真はすべて人間の目と比べてじゅうぶんに劣化した機械で記録した静止画であり、それらを眺めてやれ美しいとか言っている。その「美しい写真」を見ている眼球について考えたことあるのかないのか。とはいえ静止画という媒体を楽しむために写真機で遊ぶのは理に適っている。

音楽だって、すべての記録媒体は生演奏より劣っている。信条としてオーディオ機器に音質を求めないというものがあって、これはごく単純な理由で、音楽の記録というのは演奏のほとんど単純な代替なので、それらを鑑賞する装置に投資する価値はないから。10万も出せばいい席でコンサートを聞ける。

ディレイだって、ディストーションだって、思い出だってぜんぶぜんぶローパスフィルタ越しのものを美しいだなんて思ってしまうのは、あまりに世界に対して、なんというか失礼だ。もっともっと美しいものがあるはずなのに。


だから日記にすべて置いていってほしい。減衰しない、完全な、その瞬間の自分とか感情とかにおいとか光の感じとかとにかくそういったなにがしかすべてを、置いていってほしい。

完全にあのシーンを再生できるくらい精緻で過不足のない情報を置いておいて、劣化したものに触れて劣化した美しさに触れて満足しないでほしい。

雨が降っている。