Apple の新製品発表イベントがあったようだった。
ごく最近に Nexus 7 を買ったので iPad Air も iPad mini Retina Display も特に食指は動かなかった。
MacBook は予想外に大きなアップデートで欲しくなった。
13インチでも:
- メモリを 16GB 積める
- ほんの少し薄くなった
- 少し軽くなった
というような気になる変更があってぐらついている。
自分は Apple ファンというより MacBook のファンで、Apple の製品発表イベントの類も MacBook がフィーチャーされそうだと予想すると夜更かしして見る。
最近だと昨年の Retina 13インチの発表が興奮した。Apple のイベント自体は初代 MacBook が出た頃からずっとウォッチしている気がする。
まどか☆マギカの映画がリバイバル上映されていたので見てきた。座るのに疲れて最後のほうはあまり集中して見れなかった。
さやかや杏子、ほむらについて、それぞれ思うところはあれども、みんな美しい生き方をしているとは思っていなくて、みんなそれぞれにエゴがあって、歪んだ思いで時々の選択を行っている。
彼女らの愛おしいところはそういうところで、合理的でもなければ、もはや意味もわからないままになにかにこだわり続けていて、なんでこんなことにこだわっているのか本人もわからなくなってしまっている、というところがなんというかあまりにいびつで、自分の形を変えられぬまま、窮屈だ、歪んでいる、おかしい、と叫ぶ姿が、だんだん自分に失ってはいけないものの形を教えてくれる気がする。
杏子がずっと口にしていた「ひとつだけ守れ」ということは、僕もずっと考えています。たぶんなにかを損なわないようにと考えることは、何を自ら差し出して損なうのかと考えることなのだと思う。積極的に捨てていかなければいけない。
杏子は、さやかを救い出す、という結果を求めてああいう行動をとったのではなくて、「さやかを救えると信じる自分」を守るためにあのような行動をとったのだと思っている。
杏子がより合理的な選択をとったとしてもその先にはなにもない。理不尽な相手に対して合理的にふるまってもますます理不尽な思いをするだけなのだ。
積極的に自分を殺そうとしなければいけない。その理不尽さが、浅はかさが人を殺すのだ、ということを理解させなければいけない、という思いを持つときがある。
一方でそんな理不尽な浅はかな人によって積極的に殺されるべきなのか、という思いもある。これは自尊心の問題と合理性の問題でもある。
自尊心の問題は、自分の中では積極的に負けていけ、という風に落ち着いている。自尊心を本当に損ねられるのは自分自身だけであるので、他人に怯えるときに自分が守りたいのはただの虚栄心ではないのか、といったことを考える。
合理性の問題は、要するにそもそも理不尽なやりとりそのものが発生すべきなのか、というような話で、これはそれに見合うなんらかの見返りがあるならやってもよいだろう、くらいのごく平凡なことしか考えていない。浅はかな人を諭すためだけに自分が積極的に殺されにいく義理はない。
いま目の前にあること、少しでも考えはじめると途端に疲れが増してきてなにも考えたくなくなる。
昨日は考えることをやめてぜんぜん別のことをやっていたら、とても身軽に動けて楽しかった。ソフトウェアのことについて考えて気が重くならなかったのがとてもひさしぶりのような気がする。
Go とか Clojure とか、違う領域にあるプログラミング言語に触れていて刺激的で楽しい。