この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

一時期は Tumblr の reblog にややハマっていたけれど、いまは (自分の中では) 下火になっている。

「コピー」であるというのが嫌いというか、悔しいというか、負けた気分になる。

Web は「参照」が集まっているのがおもしろく、また便利なのであって、「コピー」というかたちで情報を収集するのでは Web のおもしろさが死ぬんじゃないか、という気持ちが募るばかりだ。

でも、実際は「参照」される Web 上のリソースは簡単に消えてしまう。そうやって積み重なった Web 上のリソースに対する不信感が「コピー」への回帰を呼んでいるのだ、と結論づけるのは夢がないし、単にそういうだけならそこらへんのおっさんでもできる……。


Git のようなモデルをとるのはどうか。つまり一度現れたリソースは消えることがなく、ただ必要に応じてより見えづらい場所に退避させられる。

参照されず「死んだ」リソースは徐々にごみ収集車が集めて廃棄されていく。


Git を使う際にあまり rebase してコミットを整えようという気持ちは少ない。

未来の自分は、時間の経過と共に経験を積み視野が広くなるが、翻って未来から見て相対的に過去である「現在」の自分は相対的に知識が少なく視野も狭いといえる。

そのような自分が「これは不要である」と判断して捨てられた情報が、未来の自分ないし誰かが必要としうることは少なくない。


過不足ない、ということに対する意識のバランスが偏っている気がする。

情報が不足していることに対するある種の憤りは常にあるけれど、情報が過剰でフィルタリングに手間がかかる、ということに対する想像が少ない気がする。