この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

今日、1週間ぶりに学校にきた。懐しいかんじがしたのは気のせいではなかった。

生まれてはじめて (試験期間中に催される) 大学の定期試験を受けて、べつにそれは大した感慨のあるものでもなかったけど。

試験を受けている最中に、大学にいるあいだはずっと感じていたモヤモヤとした不快感が、今日はそれほど強くないことに気がついた。1週間ほど学校から離れるだけで、ずいぶんと体調もよくなるものだった。そのかわりにエアコンのかけすぎだろうか、喉を痛めてしまったけど。

不快感が薄れているだけではなくて、どうもキャンパスを歩いていてふわふわとした気持ちになる。1週間来なかっただけでずいぶんと見え方が変わった気がする。1週間前まではキャンパスに慣れた気持ちがあったけど、それが薄れてちょっとよそよそしい風景のように見えた。ほかの学生の喧騒も、じわじわとシャツに下着に染みこんでいく汗のせいかぼーっとして聞こえた。あまり感じ入ることはなかった。ただ、横を通り過ぎる「大学生」というなにかが、はたしてなんであるのか、みたいなものがあやふやになった。

たったひとつの試験を終えて蜻蛉返りのようにバスに乗って帰る。そのまま電車に乗ってアルバイトに行くつもりでいたけど、そうだ、今日は食事に誘われていて休みを頂いたのだった。

アルバイトとして所属している会社には、自分でも驚くほどに帰属意識がある。働いていることに誇りがあるとか、そういう大仰なものではないけど、ただ、自分が何者であるのか、と問われたら、一番に「アルバイトのエンジニアです」と答えたい。「学生」とは答えたくない。

そして、今日、誘っていただいた人たちがいて、僕は彼らを友人と呼びたいし、そうする。僕には友人がいて、たとえば僕がエンジニアとして有能であるとか、特異な芸術の才能があるとか、そういう理由で彼らと知り合ったのでなく、どうにも取るに足らないような、よくわからないきっかけで、でも友人としての形をなしている。僕のなにもかもを見ていないし、なにもかもを見ている。そして僕も彼らのなにもかもを見ていないし、なにもかもを見た。

学校で出会い、生活を共にすることになった人たちについて、言われるまでもなく親しくしようという気持ちになる。ちがう、親しくしなければいけない、という強迫だ。生活を共にする上で不和はよくないから? 不和さえなければ親しくなる必要はない。単におれが学校で知り合った人たちと親しくなること、友人になってくれることを望んでいるだけだ。そして、しかし、おれは友人の「到来」を待ちわびている。ある日、朗らかに笑い挨拶を交わし、時には下らない些末な話を、時には神妙な面持ちで将来について語りあう、そんな友人を待ちわびている。しかし、おれは、そんな友人のつくりかたを知らない。親しく「ならなけらばならない」人々すべてと「友人」になる方法を、おれは、知らない。

だから、けっきょく、そういった強迫の伴わない人間関係だけがおれのほんとうの財産であり、唯一の友人でもある。他人への懸念などなにもなかった小学生のころに出会った人たちなど。

パートタイム・エンジニアである自分、小学生のころからの旧知の仲である自分、インターネットのよくわからない人である自分、そして2年という歳月を棒に振って得た念願の大学生である自分。

たぶん、学生という身分を投げ出したいと言っても、家族は責めることなく受け入れてくれるだろう。たとえ2年の歳月と100万ほどのお金を捨てることになっても。そういう人たちだったし、そういった面に救われてきたところがある。しあわせだ。

だからこそ、学生をやめるとして、その先を見据えないといけない。学生という大きなひとつのラベルを捨て、では次にどんなラベルを自分に貼るのか。そのラベルが指す意味、その重さだとか、いろんなことを考えなくちゃいけない。自分の人生をコンテンツのように消費してあそべる時間はそう長くない。母が老いてきたら養うことを考えないといけないだろうし、自分が新たに家族をもうけることになったらなおさらだ。無茶な遊び方もそうそうできなくなるだろう。だから、無茶な遊び方できるあいだに、たくさん自分の人生をむだづかいして、なにがむだであったのかをきちんと覚えていこう。