中学生のころは、自分も他人も、まだまだ幼くて、ずいぶんと不器用というか、身を削るようなコミュニケーションをしたなあ、と、ふとおもった。
「嫌われること」と「疎まれること」と「虐げられること」がないまぜにして一度に振りかかってきたので、それらの区別がつかなくなった。
だから、きっと、「嫌われる」と、「疎まれ」たり、「虐げられる」と、今でもおもっている。奥の方では、「そんなことない、おまえの妄想だ」という声がしているけど、そういうトラウマめいた鮮やかな記憶というのはなかなか離れなくて、いまでも頭を支配している。
べつに、その当時に周りにいた人間を憎んでいるわけではない。おれがうまくできなかっただけで、周りはうまくやっていた、ようにみえた。おれがなにかと足らないだけのはなしだ。
いまのおれは、学校というコミュニティ(ひいては社会というコミュニティ)から離れていて、学校で疎外感を感じることの重大さを軽んじているないし忘れているので、ブログやTwitterに「べつに嫌われても死ぬわけでもないし気にすることはない」と書けるけど、落ち着いて、ゆっくりと学校に所属していたときのことを回想し、また他人に嫌われていた当時のことをおもうと、とても辛くて言い様のない感情をおぼえるし、やっぱり他人から嫌われることの重さを忘れることはできない。
他人と対話したくないとおもうのは、他人と対話したいけどそれがうまく行えないがゆえの反発だ、ということも理解しつつある。理解しても解決には至らない。
まだまだできることはあるだろうが、それでも、今のおれには八方塞がりのように見えて、都合のいい誰かによる救済を求めたくもなる。