この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

自分の至らなさ、腑甲斐無さから、できないことが多々あって、それについて「くそ、こんなはずでは、でもいつかはみてろ」という気持ちで、ぜったいになんとかやってみせるぞ、という気持ちを持とう、と心がけている。Twitterが日常の社交の場となりつつあって、そういう場があるから、おれはそこへそういう気持ちを投げる。

けど、「できないやつ」「やらないやつ」を認められない、認めたくない人間もいるわけで、おれはそういう人間たちに認められない。認めてほしい、なんていわない。認めてもらえたら、きっといろいろな幸せのスイッチが入るだろうが、でも、そもそも、「認める/認めない」という二択が圧倒的不幸をもたらすし、おれはいろいろな幸せよりも圧倒的不幸がなくなるほうが嬉しい。

「やる気はあるけど実力/結果が伴わない」「実力/結果を認めてもらえない」というルサンチマンが集結、拡散し、巨大化する一方で、ルサンチマンを越えられる可能性を持つのではないか、と感じてg-91に身を投じてみたけど、「実力/結果を出している人間」が出せていない/出していない人間を「実力/結果が伴っていない」という目で見る構造は、やっぱり存在するし、けっきょく、そんな夢みたいな集団なんて、ない。

実力が伴わないのも、結果を出していないのも、どう転んでもおれの問題で、べつに他人がどうだ、という問題ではない。コードで人を幸せにできないのも、おれに問題があるし、ワクワクするような音楽を聞いてもらえないのもおれの問題だし、ぜんぶ、ぜんぶ、おれが悪い。でも、傲慢だということを承知で言わせてもらうのならば、「自分に問題がある」という意識をもっていること、そして、それを受け止めて、変わろうとする意思と手立てをもっていること、を知ってほしい。

結果はわかりやすいし、およそ誰でもアクセスできることが多いし、評価の対象としやすい。それに対して、人の意思というのは、とてもわかりづらいし、容易にごまかせる (かもしれない)。でも、「もしかしたら (そういった意思を) 持っているのかも」と、その可能性を、信じて、もらえないだろうか、と、切実に、おもう。もう少しだけ、少しでいいから、待ってほしい、見ていてほしい、おねがいだから。

他人にわかってもらえていない、と感じていることがある一方で、きっと、おれにも「わからない」ことがあるんだろうな、ということも、わかる。おれも、あなたについて、「わからないことがある」ということを知ろうとするから、その努力をするから、だから、聞いてくれないだろうか。

とおもっていた。声に出したことがなかった。誰に言えばいいのか、わからなかったからだ。まだ、誰に言えばいいのかわからないけど、声にしてみた。おれは、人込みのなかで耳をそばだてて、他愛もない会話や独り言を聞くのが好きだから、きっと世の中に、3人くらいは、同じような奇特な人がいるだろう、とおもいながら、声にしてみた。