しあわせ

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

Twitterのpostをまとめたかんじ。

おれのような人間はひどくめんどくさいとおもうんだけど、めんどくさいというのにもいろいろあって、そのなかのひとつに「コストがかかる」ってのがあるとおもう。(ひらがなが多い…)コストというのは時間だったり、お金だったり、精神力だったり、いろいろ。

そもそも幸せというのは、まともな人間のつくった言葉で、他人との関係をおろそかにしたり、自分自身との関係もおろそかにしてきたおれは、ある意味まともではなく、幸せというのが精神という数直線上において正の方向を指すなら、おれの精神は負の方向に点をとっているので、幸せを得るためにはゼロ点からスタートするより多くのコストがかかる。

どうせ、幸せを得るためにあれこれと肉体や精神や時間を削るのならば、既に幸せを得ている人により多くの幸せを贈るのではなく、幸せを受け取ることを知らない人や忘れた人たちにこそ贈るべきだ。幸せの味をしめた人たちは舌が肥えており、その味に対して口うるさく批評をするが、飢えている人たちは味の批評をすることなど知らず、受け取ったことにひたすら感謝をする。得られる達成感や、その人が感じる幸せの量を考えるならば、飢えている人たちに与えるほうがいい。

幸せというものは定量的で、決まった量しかないものを、世界中の人々が奪っては失い、というサイクルを続けているようなものだとおもっている。

しかし、力にものをいわせて寡占し、味をしめているやつらがいる。そういうやつらが、心底憎い。閾値以上の幸せを堪能しているリア充どもは、余剰分を搾取され、還元すべきだ。

おれが幸せにしたいのは、飢えている人たちなので、味を知った人たちは知りすぎた分、幸せの財源となってもらう。そうやってみんなが幸せになるサイクルをつくりたい。

散々、幸せという言葉を使ったけど、「楽しいきもち」でもいい。ようは惨めであることを忘れられる麻薬のやりとりのはなしだ。