『魔法少女まどか☆マギカ』についてはっきりと自分の気持ちを書いておかなければならない気がしたのでここに記すことにする。
アニメ作品についての考察・批評のようなものは絶対に書かないという鉄則を掲げてきたが、それを侵すことになるかもしれない。
魔法少女とはなにか。ただの子供である。思春期の多感な少女、ただそれだけである。たまたま魔法という不可知の力を奇跡と共に得た、ただそれだけの少女である。思春期の少女は可能性を孕んでいる。外界(社会)へ干渉する力に乏しいが、代わりに内界(自己の精神)に干渉する莫大な力を持っている。内的世界もひとつの世界であり、それを大きく塗りかえるほどの熱量を保持している。これは作中でインキュベーターが指摘している。
『まどか☆マギカ』は人間社会を単純化し劇化させた写し鏡である。奇跡を顕現させる不可知の存在という劇薬が、より色濃く凄惨に描き出す。
インキュベーターは、魔女退治という労働を通して内的世界を変えるほどの力(彼らの言葉でいうエントロピー)を対価として得る契約を求める。エントロピーを差し出した少女は、大人への成長を余儀なくされる。ソウルジェムの濁りは少女の心の濁りであり、大人として関わりあう中で避けられぬものであり、自らの責任において処理されるべきものである。人が抱えられる濁りには限りがあり、心が濁り切れば人としてのあり方が壊れ、『大人』として社会から認められなくなる。そうして社会から『大人』と認められず、しかし世界を変えるほどの熱量も失い少女たる資格も失った人は魔女となる。人を呪い、妬み、恨むことしかできない者に成り下がる。正しい『大人』はこれを処理しなければならない。正しい魔法少女のありかたとは、社会が認めなかった者を排除し、また自身も社会に認められる存在であり続けることである。つまり、社会への適応。
そして魔法少女は少女でも『大人』でもないという点で、魔女と表裏一体であり、それゆえ社会から庇護を受ける対象たりえない。奇跡に等しい力を手にしていながら、魔法少女はその奇跡の力による絶対の庇護の内にない。彼女たちにとって死は定義が書きかえられただけで、規定のものであることに変わりはない。現に魔法少女は何度も何人も死んでいる。
美樹さやかは、魔法少女が絶対の保護の下にないこと、奇跡は相応のリスクと引き換えに実現されること、それらを知ってなお契約した。降り注ぐ危険を避ける賢さに欠ける非合理的な判断を下した彼女が社会に適応する可能性は最初から全く無かった。人は自身だけを救済するためにつくられていて、自身以外の何者の業を抱えることはできない。魔法少女も人の定義を拡張しただけの存在であり、その制約は残っている。だから、彼女が救ったのは彼だけであり、彼女自身が救われる余地もまったくなかった。自身を救う術を失った彼女は、心に淀む澱を洗い流すことができなくなり、社会から落第した。友人を暴力に曝すその姿は人から堕ちたもののそれである。彼女はまったく合理性に欠け、自身の救済を望んでいないとうそぶき、社会にはびこる悪意に適応できなかった。社会が規定する正しい人としてのあり方から大きく外れていることに違いない。しかも、彼女は多分、明白な罪を犯した。命を奪うという最悪の呪いを施した。
そして罪人たる美樹さやかを赦そうとした佐倉杏子もまた、社会に弾かれ命を落としたことも必然といえる。
佐倉杏子は、美樹さやかと同じ過ちを犯し罰を受けてから、生き方を省み、正しい生き方を実践し続けてきた。人が抱えられる重さを正しく知り、自分だけを大切にして生きてきた。しかし、それは美樹さやかによって破壊された。自身を含む魔法少女が実現されている仕組みについて明らかにされた後、杏子はさやかに対し「既に対価は払い終えている」「残りの奇跡は自身のためにつかって生きろ」と諭した。しかしこれは欺瞞である。既にさやかが指摘しているように、杏子は「自身のために生き」るのならば、さやかを諭す必要はない。
杏子はさやかに自身を見出していた。他人のために願う、「間違った」生き方を続ける人。間違った生き方は不幸をもたらす。杏子は、目の前のさやかを救うことで、過去の自分も救おうとした。これも「間違い」だった。違った哲学のもとに生きていた自分は既に自身から乖離し、既に別人であり、つまり現在の自身、過去の自身、そして他人たるさやか、これら3人を救おうなどということは到底、不可能であり、明らかに間違っている。ひとつの間違いはすべてを破壊し、結果として杏子は、さやかも、現在の自分も、過去の自分も、誰ひとり救えずに死んだ。「一人は寂しいもんな」はまさしく独白であり、さやかへの語りかけでは、決してない。
では、佐倉杏子は無自覚に自身とさやかを混濁したのだろうか。
杏子は鹿目まどかの前で「愛と勇気の物語」への憧れを口にした。「愛と勇気の物語」はフィクションであり、社会には存在しない。社会は完成されたシステムであり、そのありかたそのものが正しさでありルールであり、社会が内包しえないものはすべて「間違い」である。しかし彼女はある見方に立てば合理的な判断をしたといえる。彼女らの得た魔法という力はフィクションのそれであり、フィクションに存在するものはフィクションのために使われるべき、という演繹である。杏子はさやかが魔女となり世界を滅ぼすか魔法少女の手によって殺されるか、という未来を確信し、そして自身もそうなる未来もまた確信した。結果が規定されていることに絶望するでもなく、その結果にむかって進む道を自らが望むままに選びとった。その無邪気なまでの幸福への貪欲さはまさしく人間のそれである。
美樹さやかも、佐倉杏子も、決定的に間違っていた。社会に、世界に、どうしようもなく拒絶されてしまった。
いまいるこの世界はなにか。彼女らが住まう世界、『まどか☆マギカ』は我々が住まう世界の中にある、ある世界を模倣したまた別の世界である。いま、この肉体が、精神が住まう世界は、事実であるかもしれない。たしかに時間と積み重ねてきたことに嘘はないだろう。だけど、この世界を、いま自分が住まう世界を、美樹さやかや佐倉杏子を殺した世界を、現実と言っていいのだろうか。現実とは本当の世界のことであり、自分が正しいと認め、生きることを選んだ世界のことである。ほんとうにこの世界を認め、選び、生きていくのか?この世界が事実であることはどうしようもないことだろうが、この世界が現実ではないと、嘘だ、と言うことはできないだろうか。いまこの世界は、この世界で生きていけるだけの強さを持った者が認めればよい。それだけの強さを持ち合わせていないのなら、この世界で生きることを諦める。世界を壊すことはできなくとも、否定することはできる。だから、僕は佐倉杏子と穏やかに生きていける世界を目指して旅立つ。