富豪的な生き方

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

死ぬまで、とか長い期間に渡って金銭などの基本的な生活水準の保証を求めることにあまり意味は見出していなくて、生活水準が下がってそれに適応できなくなったら死ねばいいとおもっている。日本、あるいは世界がn年後にはどうなっているのか、とかそういうことにはあまり興味がなくて、たとえば年金がもらえなくて生活資金に困ったらそのまま死ぬだけだし、あまり生きることにこだわりがない。

ここ数年、母子家庭になる前後あたりでうちの家庭は金銭的にかなりたいへんな状況に陥って、電気や通信などのインフラ料金が払えなくて停止したり、そうでなくとも請求書の類がよく来て、生活保護を受けるほどまでではないので相対的にはマシだろうが、それでも不自由のない暮らしをしていた時と比べればそれなりに大変だった。

今になって言えることだけど、と親から聞かされた話ではその前にも何度か修羅場があったそう。具体例を挙げると、父が脱サラして立ち上げた事業が失敗して収入が減って、ローン滞納により持ち家が競売にかけられるところを、知人の不動産屋の図らいで相場よりかなり高い金額で売却しローンの残額ほぼ返済できた、という話。

それでもこうして生きていることは、話を聞けば聞くほど、周囲に恵まれたが故のことだとおもっている。おれは、そういう周囲への感謝に欠ける部分があると自覚しているので、きっと窮状に陥ったとしてもこうはうまく事が運ばないだろう。それでいい。自然な成り行きで避けられない死を避けようとすることはしない。

能動的に生きているかぎりは、どうやって生きるか、ということを考えていたい。生きることは手段でありたい。生きるが故になにかをすることはあっても、生きる為になにかをすることはしたくない。そうなったら死ぬ。

写真を撮ることだとか、コードを書くことだとか、アニメや漫画を楽しむことだとか、楽器を弾くことだとか、そういうことにしあわせを感じるけど、それらは生きているあいだは嗜みたいというだけで目的たりえない。どれも好きだけど、そのために死なないことを選びたくない。けっきょく死にたいから生きるのだ。どうせ死ぬし、いつでも死ぬから、長期的に生きようとするのはいやだ。刹那的、そのときそのときで、おもしろいことをやりながら生きて、そして死にたい。

自分の肉体と時間を差し出して得るお金なら、生きるため(== 働くため)にお金を使うなんてばかばかしいことこの上ないから、いつもおもしろいこと、楽しみたいこと、儀式でない求めるしあわせのためにだけ使いたい。衣食住を整えるにせよ、常に感謝と幸福に満ちていたい。衣食住も、趣味も、なにひとつ当たり前にしたくない。おもしろいお金の使い方ができなくなったら、お金はいらない。その結果として、死が待ち受けているのなら、それが自分の死に時なのだから、甘んじて死ぬ。

あえて乱暴な言い方をするなら、「生きるために生きる」ことは貧困な生き方だし、恵まれた中で生まれ育った自分が貧しく生きる誰かを顧みることなんてできない。そもそも、そういうどうしようもない隔てられた壁があるのにも関わらず、歩み寄ることを無条件で善行だと考える連中が大嫌いで、だからエリート意識のないエリートが心底嫌いだし、その一派である東大生も心底嫌いなのだし。人間は平等ではなくて、等質ではないということを念頭に置いて生きていかなければいけなくて、だからおれは富豪的な生き方を徹底する。