この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

共感を覚えて、でも次の瞬間に違うって否定する。そんなのありえない、って。
たいてい、最初に思ったことは間違っている。そもそも何を軸として間違っている / 正しいという判断をするのか。
すべてにおいて正しくありたいとも思わないし、すべてにおいて間違っていたいとも思わない。ただ、正しいとか間違っているとか考えなくていい世界に身を置きたい。せめて、頭に浮かんだ下らないことでも、その下らないことが「下らないこと」で終わる世界に、おれは、いたくない。

おれは、なにもできない。なにも、というのは物理的な、即物的な行為のことで、誰かにお金を恵むこともできないし、誰かのために何かを作ることもできない。いつも、誰かが生み出したお金を拾い集めて、誰かが作り出したものを消費するだけなんだ。
でも、即物的でない、精神的なことならできることがある。なにかの問題について知識をつけて議論してみたり、誰かの愚痴をきいてすっきりさせてあげたり。

なのに、考えることが「下らないこと」というタグ付けをされて、ゴミ箱にまとめて delete されてしまう。考えることはおれの存在価値をつりあげる要素であり、つまりおれは常に存在価値をゼロに保たれている。
別におれは存在する必要のない人間で構わないけど、じゃあ、価値のないものは排除される、そんな合理的なシステムにしてほしい。
価値を勝手につけて、「退場しろよ」という罵倒を集めておいて、「帰りの旅費はお客様にご負担いただきます」とか、ちょっと、アレ。
いてもしょうがないやつをそこに置いておく意味はなんなのだ?
いらないものは整理して、捨てる。そういう愛のある、自浄作用もないなんて、決定的に欠陥的システム。おれが hxxk してやる。したい。

おれが世界を、社会を変えられるとして、そこまでしておれは居たいとおもう世界なんだろうか。
そもそも世界を変えられるのなら、自分をなんとかできるんじゃないだろうか。
どっちにしろ仮定の話で、おれはなにもできない、なにも変えられないので、意味が無い仮定の話だ、まったく。

おれは弱い。甘い。決定的にクズだ。それでも現状に甘んじる。余計にクズだ。
ゴミクズをどうにか使えるものにするよりも、さっさと焼却炉に突っ込むことのほうがエコロジー的であるときもあるだろう。