今の会社は男女比が男:女=50〜100:1くらい? 東京と京都の拠点によっても見え方は変わるだろうけれど、総じて男性のほうが圧倒的に多い。

翻って小〜中学生のころの部活は女性のほうが多く、高校も元々女子校だった商業系の学校が10年前くらいに共学になったくらいでやや女性が多いくらい。

なので、これまでは多くてイーブン、男性のほうが少ないくらいの所属が多かったので同じ世の中でもぐるりと比率が反転してしまうような世界があるんだなあと今でも不思議なかんじがする。

 

あーだめだめ、こんなんじゃだめ、楽しいことを考えます。

先週は宇治に出かけた。京阪宇治に用事があって時間があったので三室戸で降りて宇治川の河川敷を歩いた。久美子とあすかゾーン。

6月中旬なのに涼しく乾いた風が吹き付けて快晴で、今ではないかんじがしてどうにかなりそうだった。

こうやって同じ場所の違う季節を知ると、自分が過ごしたいつかの時間を別の場所で過ごした誰かのことを考えてしまう。

自分が過ごしてきた二十数年とは違う二十数年を手に入れた人のこと。

それを羨しいとかそういう風には思わないけれど、どうあがいても自分が二度と手に入れることのできないものを他人が持っていることが、時々とても尊く思える。

「フィクション」とか「現実ではない」という言葉が嫌い。我々が認知できる現実なんてせいぜい自分ひとりぶんなのだから、自分以外みんな非現実だ。

だから同じ次元にいようが小説の中であろうが、他人ならみんな自分の現実にいないし、だったらそんなもの言葉で区別する必要なんてないよ。

これって楽しいことなの? 少なくとも自分ではない誰かに後ろ暗い気持ちが向かないだけずっと楽しいよ。

自分からは届かないなにかがあるということを時々実感して思い出すたびに、届かないそれらに近づいてみようと無謀になれたり、手の届く自分の中を片付けてみようと思える。それって普段している自分の身の回りの整理整頓であったり旅行であったりとかわらないと思える。

自分の知らない土地にいくように、自分の知らない他人に触れてみる。僕は北海道と大阪と京都にしか住んだことがないけれど、生活の拠点にするまでではないものの過ごしてみた街はもっとある。

そういう風に、誰かの中に引っ越したことは数えるくらいだけれど、でもお邪魔したことのある誰かはもうちょっといる。

Google Mapsでロシアの北極圏を見ると他人が恋しくなる。こんなに厳しく遠いところでも人は住んでいるのだろう。

自分の知らない場所が広がって地図の空白が広がるほど、それを埋めてみたいという気持ちも募る。

一生かけても地図は埋まらないだろう、だからこそどの空白を残してどこを塗り潰すのかを考えるのが楽しいんだよ。

忙しいとかいろいろあるけど、いろいろある中でもそこそこ夢中になれていたはずの仕事に対する情熱みたいなのが翳ってきたかんじがある。

6年経つのでもういいかなあっていう気もする。

調整ごとみたいなの、それなりに必要だとは思っているし自分でやることにやぶさかではないが、なんかコスパが悪すぎてウワーーーッてなる。

調整をすることで一人でやるより大きな力が得られるとかなら納得感もあると思うんだけど、調整とかをして得られるのが賃金が発生する労働時間の使い道の許可だけで、コスパ悪いというかむしろ単なるボトルネックじゃん? っていう思いだけが積み重なっていき、なんだかなあってかんじ。

自分も会社もこんなばかばかしいことやって仕事した気になっているほど余裕ないでしょ? とは思うんだけど。

最近ほんとうに余裕がなさすぎてダメ。

余裕がないので他人に不寛容だし、どうしてこれくらいのことをしてくれないんだろうくらい思っている。

当然、常に自分の期待は他人の実力を上回るから、余計にフラストレーションが溜まる。

こんなではソウルジェムが濁る。

ブログ・日記を続けるという感覚がよくわからない。

のべ年数でいうとこの日記は2009年から書いているけど毎日書いているわけではなく、虫食いである。

続けているという感覚も希薄だけどやめたと思ったことも一度もない。

 

毎日自分は感じ続けているし、それを他人に話したり、飲み込んだり、日記につけたりするだけ。

呼吸を続けています、呼吸をやめますとは言わないのと同じだと思う。

 

でも続けていると言いたい気持ちもちょっとわかる気がして、今まで習慣づいてなかったことができるようになったら成長できたかんじがするし自慢もしたくなると思う。