この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

今日はお腹の調子がよくて、身体も軽く、体調がよかった。

一方で気分はもやもやとしていた。すごく何かに怒っていたり、悔しがっていた記憶があるけど、かなり曖昧な記憶になりつつあって、遠いかんじがする。人が話す様子とか見たりしても、気持ちがよくわからなくて、「へー」という気の抜けた感想しか生まれない。

この頃ずっと漂っていた漠然とした不安のことは、より具体的な不安になったことでもやもやした感じはなくなった。不安は、不安ではあるけれど、しかたないかな、というかんじがする。

  • この先どうなるのだろう
  • どうなったらいいだろう
  • どうなりたいのだろう
  • どうすればいいのだろう

自分のこととして考えなくちゃいけないんだろうけど、主観的になにか考えられない。ぼーっと画面を見ているくらい。

でもこの状態はすごくよくて、今日はとてもコードを書くのが捗った。普段、いろんなことにイラついて、怒っていて、注意が奪われていたんだなあ、と痛感した。

なんでこうなってるの、なんでこうなってるの、なんでこうなってるの、なんでまた、なんでまた、なんでまた、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

日常的にイライラしすぎだと思う。

コードを憎んで人を憎まず、みたいな考え方もある。自分は人を憎まずにはいられない。いまコードを書いた人間を猛烈に憎んでいる。コードを書いた人間が憎いというより、安直にこんなことをしやがって、という気持ちのほうがより適切に自分の気持ちを表現できる気がする。

絶対に、こういう風にはならない、という反面教師として毎日心の中で痛罵しながら自分の襟を正している。

こういうかんじで、だんだん憎悪だとかどろどろした感情に対する自制が壊れつつある。自制しようとすると毎朝御池通りを歩いて乱暴な運転で歩道を駆け抜けていく自転車に乗った人間を追いかけて正義だ、とか言って殺してしまうだろう、という危機感がある。

自転車に乗った人間の首を折ってしまうより、目の前のコードを書いた人間を心の中で毎日憎みながら、こうなってはいけない、こうなってはいけない、と唱えるほうが、よい。

最近は、イライラしたり、怒ったり、そういうことが多くて、しかし元来、自分は器量の狭い人間なので、もはや自分がイライラしたり怒ったりすることに疲れつつある。今日はそういうエネルギー消費の著しい情動がなくて、非常に穏やかな気持ちで集中してコードを書くことができた。

機械になって、たとえば自分が右手を動かすことになんら疑いを抱きたくない。機械になりたい。人間らしいふるまいをして嬉しいことはひとつもない。自分も他人も、すべて機械なのだ、ソフトウェアなのだ、と考えれば、すべてはバグ修正になる。自分はソフトウェアは憎めない。ソフトウェアは完全に人間に支配されているから、憎むべきはそれを扱う人間だと思う。人間は自分の中で首を折ったり、髪の毛をひきちぎったりしてよい、殺してもよい、という扱いになっている。けどソフトウェアは違う。ソフトウェアには濁りがなくて、打てば響く、自分がなにかしようとしたことだけが映し出される。ソフトウェアの記述を通して表れるかもしれないなにかは、それはきっと「人間らしさ」のような下らない表現を越えた、もっと尊いなにかであるかもしれない、と信じている。