いつも仮想敵が頭の中にいて、そいつらと仮想戦争をしている。強いも弱いもない。ただ、おれがそいつらに負けないで耐えているだけだ。そいつらの銃弾が届かない場所へ必死で逃げ回っている。おれは勝てない。勝利条件を知らない。自分で設定したゲームなのに? これはおれが始めたわけでもないし、おれが作ったわけでもない。実在する戦争をシュミレートしているだけなんだ。

人間とコミュニケーションをとることが、とてもこわいし、わからない。自惚れかもしれないが、今まで小、中、高と学校に属してきたけど、どこででもそれなりに人間と最低限度のコミュニケーションをやってのけてきた。すれちがえば挨拶するし、ありがとう、ごめんなさい、もいえた。体育会系のような、張った声は出せなかったけど、ぼそぼそ声に近いこともあったけど、高校では、「どちらかというと地味な、でも普通のやつ」としてやっていけたとおもう。少なくとも孤立することはなかった。付き合いを持つ人間を「選ぶ」ようになってからは、顔の広そうなやつを選ぶようにした。顔が広いと、一部をのぞいて、「その他」として扱ってくれるので、挨拶を交わすだとか、実験でペアになってくれるだとか、生活するうえで最低限度、困らない程度の付き合いをしてくれる。

でも、人間と会話したり、顔を合わせることって、得意でもないし、好きでもない。でも、そうしていないと、頭がおかしくなるということを知った。それは人の温もりが、とか、そういう話ではなくて、生身の人間の感触を忘れると、想像で補おうとし、人間についての理解が貧しい心で想像するので、どうしても偏った仮想の人間が登場し、そいつらはまあ、かなり狂っているので、狂っているやつらの相手をするにはまともでいると精神を消耗し、結果として心が狂う。苦しくて、やめたいんだけど、実際にやめかけて、頭をおかしく(あるいは、よりおかしく)してしまい、これはまずい、と人間と関わる方向に傾いた。

そう、狂うとなにがまずいのか。一応、おれは、大学へ入学しなにかしらするという人生の設計をたてていて、それを実現するために大学への入学の権利を得るために、入学試験への合格を目指して勉強している。高い目標であり、客観的に見て、ふらふらとしていて受かる見込みはなく、受験生然としてがつがつ勉強しないと、たいへんまずい具合になる。でも、勉強したくない気持ちがずっと強くて、それは問題を解き終えて採点をしたあと、その点数が低いと、不合格になり、また一年、大学への執念と人間への憎悪と恐怖で頭をおかしくするのか、はたまた就職するのか、という恐怖の妄想がかけめぐり、「勉強する」->「低い点数をとる」->「大学へ行けない」->「こわい」という連鎖反応がおきる。

自分がどういう顔をしているのか、よくわからない。人にそこそこの好感をもたれると生活が円滑に行えるので、基本だという笑顔の練習をしたことがある。今でもたまにする。でも、おれの笑った顔は、ぜんぜん笑っていなくて、いろいろ顔を変えるが、無表情か、無表情の顔から口を開けただけの顔にしかならない。顔をマッサージしたり、鏡の前に立つことを習慣づけた。それでも、小学校のころから、「笑った」顔は笑えていない。この顔はとても汚ない。醜いというより汚ない。誰かの笑顔をトレースし、それの通りに顔のパーツを歪めただけだ。人間らしさなんてかけらもない。人間らしい無表情というのがあるとおもうけど、おれの無表情は人間的でなく、「おれは人間以下のクズである」というのはあまり間違いではない。

結局、気のきいた言葉も言えないような人間でも、笑顔ができればなんとかなるもので、逆にいえば笑顔のできない人間は人間でない。人間的でない。人間的でないものが人間のような装いだったり振舞をするのは、なかなかにグロテスクだ。おれは人形を見て、いつも気持ち悪くなる。人間のようだけど、人間ではない。あまりに似すぎていて、本物と見間違えるほどに似ているけど、でも決定的に人間ではない、という、ただ、それだけの事実が気持ち悪い。

おれには、おれを守ることができない。いつも、ささいなことでへこんでばかりだし、そもそも、へこんでいるときに守ってあげようとしても、へこんでいて守ってあげることができないからだ。だから、おれは、おれではないだれかを守ってあげたいとおもう。他人の感覚に接近することはできても、決定的に「これはおれでは、ない」という薄皮があって、それは越えられない。膜に気付かず、それを越えて理解できると思いこんでいるときは、とても哀しいものだ。でも、その薄い膜を自覚できるからこそ、その薄い膜の手前で理解しようとすることはできる。

おれは、相手がおれでさえなければ、誰でも助けられそうだという自惚れというか錯覚がある。実際はやる気も関係するので、おれが好きになれる相手に限られるだろうけど。実際にそういう力があるわけではないけど、でも、おれではないだれかなら、好きになれるとおもうし、好きになればそれのために頑張れる。好きになると相手にとけたいとおもう。精神的にも肉体的にも。肉体的な相手へのとける行為はたとえばセックスだったりするんだろう。精神的に相手にとける行為というのは、つまり理解なんじゃないだろうか。おれは、好きなだれかにとけて、おれでなくなってしまいたいのだとおもう。おれでなくなってしまえば、おれは優しい言葉もかけられるだろうし、慰めてあげることもできるだろう。よくわからないが、おれは「おれである」ということで、フィルターをかけてしまい、できないことが多い。

でも、やっぱり、人間というものがこわくて、いまのところ、人間を好きになれそうな感じではない。人間が好きでいたときもあった。けど、いまは好きではない。

さよなら絶望先生をアニメ、漫画ともに大いにのめりこみ、好きになって、アニメシリーズのなかで「獄・さよなら絶望先生」というものがあって、三部作であるそれのOPがそれぞれ違っていて、どれもとてもかなしい内容だった。「さよなら絶望先生」自体は、とてもくだらなくて、女の子がたくさん出ていて、主人公の痩身で眼鏡で女々しい顔つきの教師が2ちゃんねらーみたいなことを言ったり、一部のアレな人が細かいところを見るという、あまりおもしろさが人に伝わらないようなかんじなんだけど、OP映像は原作を拡大解釈した、パラレルワールドのようなものだった。実は「さよなら絶望先生を〜」からは、誰かに読んでもらうことを頭に置いて書いていて、もしも知らない人が回れ右してしまうとかなしいので、くどいくらいに説明しておく。

OPでのテーマみたいなものは、あるキャラクターの内面っぽい。ぽいというのは、明確にそう表現されていなくて、おれが勝手にそう考えているからだ。あるキャラクターというのは、風浦可符香という人で、一言で言うと電波。2ちゃんねらーのように陰謀論やペシズムに浸ったことを言いまくるてきとうな教師に対して、ポジティブという名の拡大解釈であったり誇大妄想であったりを展開するひとだ。彼女は「首吊り自殺」を「背を伸ばそうとしている」と表現した。そういう、現実にいても、漫画やアニメをとおしてみても、かなりアレな人なんだけど、ところどころ陰があるように描かれていて、また、過去や素性についてかなり謎が多い。

「獄」のOPでは、登場する女の子たちが切り絵などになったりして、いわば二次元の世界で二次元になる。そして、二次元の世界で二次元になった女の子たちは、腕や足がなくなったり、首がもげたりする。でも、それは、二次元の世界での二次元としての女の子たちなので、まったく現実味がない。オブジェとなっている。女の子たちがオブジェになっていくけど、可符香という女の子と主人公の教師だけは、オブジェにならない。人間としてのリアルさを保っている。でも、最後には二人とも、人間としてのリアリティを失なってしまう。

これ以上、文章で説明しようとおもったけど、ちょっとおれの脳みそではオーバースペックな作業だったらしく、つらくなってきたのでやめる。YouTubeの動画への参照でもおいておく。OP映像に対する説明はあまり本質的じゃない。おれが言いたいのは、だれかの妄想にすぎないものから、さらにおれが妄想したものである、という注釈つきではあるけど、誰かの哀しさだとか、つらさだとか、痛みを感じて、でもそれをどうにかする手段を知らない、あるいは実行できないおれを歯痒くおもっている、ということ。