雨と雷が鳴り響く日が続く。連休はずっとこういうかんじみたいだった。催し事があるときにたかるようにやってくる人たちが雨に打たれたりすることを考えるとざまあみろ、と思う。ムシャクシャしている。
ふと雨が通り過ぎて、ベランダから差し込む鈍い光が、夏でも、春や秋や冬でもない、どこかからやってきたような感じがして、懐しくなって、久しぶりに見れた。
自分が死ぬときはきっとこういう天気なのだろうと思う。自分が生まれた日はどんな天気だったのかよく知らないけれど、自分が死ぬときは、きっと劇的なことはひとつもなく、底抜けに明るくもなく、しかし感傷に浸れるほど暗くもない、煮え切らない、静かな質量のある曇り空だろう。
それで、久しぶりにカメラを持って部屋の中からいくらか写真を撮った。
カメラを通して写真を撮るということは、下品な行為だと思う。品がないと言ってもいい。
絶えることなく流れる空気や命を止めてしまう写真は、きっと何かを殺しているのだ。何かを殺している自覚のない殺生ほど残酷で品に欠けて無意味なこともないと思う。
人を写真に撮ることが怖いのは、きっとそういうことなんだろう。その人を捉えきったと感じてしまうような写真を撮ってしまったら、しまえたら、自分はその人に対する興味を失うのではないか、とか。人に限らないのかもしれない。自分に突き刺さった風景をどうか捉えようとしてみて、本当に捉えてしまったら、自分の中でその風景が死んでしまうのではないか。
写真に限らないことかもしれないな。プログラムだってそうかもしれない。Web サービスもそうだろう。自分が作っているものが最低のものだなんて思っていないが、どこかで最高ではない、ということに気付いているのかもしれない。もし、これが最高のものならどうしてまだこんなに世界は最悪なままなのか、とか。
『陽だまりの彼女』を買って読み始めた。
セックスを暗示する描写が下品で気持ち悪いと感じた。下品と感じたのは、その描写の向こう側に優越感のようなものが見えたからかもしれない。「自分たちは愛しい人と深い関係にある。それを全て教えることは適わないが、その断片を知るがいい」。
心が荒れているかもしれない。そうではないかもしれない。