騒やかな孤独

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

よくコロナ禍以降の気軽に外出できない、他人と接触できないという状況を指して「日常が失われた」「もうあの日常は戻らない」といった表現がされることがしばしばある。孤独が強化されたとも。婚姻や出産件数の変化が絡めて語られることも多い。

人それぞれにとって常が何であるかは違うであろうことは前提として、それでも自分は社会生活の本質が変わったわけではなくむしろ表層が取り払われたような気がしている。

 

本来、他人とのあいだになんらかの壁がありあらゆる活動において距離があるのが自然で、隔てるものが限りなく小さい関係こそが特別であり親密さの証だとされてきた。

むしろ今までその親密さの価値が損われども検められることがなさすぎた。少しばかりの繋がりで安心してしまう。

その薄く広く覆う膜のような関係性で孤独に蓋をしていた人たちにとっては、今の状況は確かに地盤を失ったようなものかもしれない。けれども、この感染症を過去のものとできたとしても日々の底にある孤独を克服したことにはなりえない。

 

久しぶりに会う知己を前にして、以前は盛り上がれた話題で同じように話せるだろうか、自分の考えが過不足なく伝える語彙を自分は持っているだろうか、変わってしまった・あるいは変わっていないお互いを前にして無意識の内に失望してしまわないだろうか、好きだった誰かを前にして冷めた気持ちに気付いてしまわないだろうか、とかそういった葛藤はきっと10年後も変わらずつきまとう。

何も磐石なものがない中で暮らすことに恐しさと嫌気を抱くことは変わらないんだろう。

 

f:id:aereal:20200523213400p:plain

 

若者たちの孤独のありかた

「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者たちは、インターネットを通じ対面でないコミュニケーションを使いこなし、常にたくさんの誰かと繋っている環境に身を置いている。しかしながら、対面でないコミュニケーションは、対面のそれに比べ非常に情報量が制限されているので、お互いの本心を、その底のほうから伝えあうには不十分である。すると、たくさんの誰かと繋っておきながら、心の底からの思いを誰にも話せない、薄くて広い、賑やかな孤独を味わうことになる。

この賑やかさのせいで、普段の生活では孤独感を忘れがちであるが、自分はそれを良いと思っていない。深く強い孤独が人間生活であるということをちゃんと認識すべきであるのに、賑やかさで紛らわしながらの浅く弱い孤独に無自覚であるというのは、直感的ではあるが、大変に残念なことに感じるからだ。

そういう思いの中で、自分は、見た人が「孤独」を認識できるようにという思いを持って、写真を撮った。

無人のポートレイト

ふと視野を広げたときに眼に写りこむ人がいる。誰もいない場に人の幻影を見るというのは、例えばそれが懐しさに起因するのであれば、記憶の中にある風景でしか幻影は現われないはずである。しかし実際には、全くの新しい場所でも、ないしは全くの新しい場所のほうが、幻影は現れる。新しい場所のほうが、自分に関係しているものが少ないからだと分析し、自分はこの幻影は孤独の射影だと考えた。

作品は鑑賞者の思いの入れ物であるべきだと考えている。この作品を見て、鑑賞者が自分の作品を作ろうと思えるようなものを作りたかった。写真の中にいる幻影は写真には写りこんでいない。それは鑑賞者の中にあるからだ。鑑賞者にはそれぞれの幻影を写真にあてはめ、自分の追いかけている幻影の存在に気付いて欲しいと考えた (すなわち、自分の孤独に自覚的になること。孤独は作品制作の第一歩であると考えるからだ)。自分としては、人を撮っているつもりであるから、人が変数になっているポートレイトのつもりで撮影している。

写真は絵画とは違い、必ず、実在する風景をそのまま写しこんでいるから、鑑賞者は見た幻影を単にファンタジーとして片付けにくいだろうと考えた。これらが写真である意味は、鑑賞者に自分が感じた思いに対しいい訳をできるだけ与えないためである。

そこに誰かがいた #1 - 2011