この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

実家に帰省してとにかく疲れた。着いて3日目にはもう帰りたいと思っていた。今回は短めで、予定もけっこう詰まっていたので多少気が楽だった。年末年始に帰ってくると持て余してしまう。


老いてなにもかも疲弊していた。病院であった担当医の態度に対してあれこれ言葉を交わすのを聞いている。これからご飯なのになぜも明るくも楽しくもない話題が続くのか。家族が病床に臥していれば暗い気持ちにもなろうが、でもこれでいいのか?

未来の話題はなく、どんどん遡って過去の話しかなかった。

人々が子どもを愛し守ろうという気持ちに少し触れられた気がする。食事の場に同席していたいとこの存在は確かに希望と思えた。子どもは未来の象徴だった。言葉を交わすでもなく、ただそこにいるだけで、なにか救われたような気にさえなる。そんな行き場のないオトナの独り善がりな救いを求める手が子どもの首を締めることもあるのかもしれない。


久しぶりに会う友人と話して、ああ、こんなに自分は誰かと話せること・話したいことがあったのだなあ、と知る。

周りにいる人々が嫌になっているわけではないけれど、周りの人々の形に人格が歪んでいるような気がする。

バンドをやりたいという気持ちがあるけれどなかなかいい人が見つからないし、そもそも人とそんなに接したくない、みたいなことを話しながら、いやいや、これは単なる言い訳だな、と次第に冷静になった。

友人はここ1年でまた高校のときのように活動していて精力的で、それをすごいと思えど、羨むのはおかしな話で、やりたければやればいいし、やれない理由はなく、単にやらない理由があるだけだし言っててもしかたがないと気がついて、その場で今月中に SoundCloud になにかトラックを公開するよ、と宣言した。

おもしろいものを作り続けることがかっこいい、という価値観で生きてきて、かっこいいなと思う二人の話を聞いて、ダサいままでいられることをよしとできるほど腐ってはいなかった。