この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

目が覚めるとよく晴れていて「ああ、やっぱり今日は休みでよかったな」と思った。

何もせずゆっくりしつつ午後からは部屋の掃除でもしようかと思っていたけれど、気が変わって出かけることにした。

家の近くのラーメン屋でラーメンとチャーハンを食べる。夜にラーメンを食べるより昼に食べるほうがなんとなく体によいというか消化が進むのではないかと思う。

日差しの感じ、風の感じがヤバくて、これはよくない、よくないよ、とずっと思っていた。

家に戻ってかばんを取ってコートを着て再び家を出る。どこに行こうか悩む。京都御苑に行こうかと思った。先週、早咲きの梅がもう咲き始めていたから、もうちょっとたった今日ならもっと咲いているだろうか、とか。でも、そうじゃなくて、どこかまだ行ったことのないところに行ってみたいと思った。

だから松尾大社に行くことにした。大宮通を下がっている途中、三条通を過ぎたあたりで、戻されそうになっていた。どこかに戻されそうになるあの感じは不意に現れる。歩みを止めず、ゆっくりと、どこに戻されそうなのかを考えた。

南西から射す日、透き通った冷たい風、目の前にある人々の生活。

自分が暮らしている家の周りに、いろんな人々がそれぞれに住んで生活をしていることについて考えを巡らせば巡らすほど不思議な気持ちになる。

知っているあの人たちだって、家族だって、かつて家族だった人だって、別れを告げることもできずにどこか遠くへ行ってしまったあの人だって、それぞれに生活があるのだ。

大宮から準急に乗る。準急の前に特急梅田行きが通過する。電車が通過するときの風圧はいつも死を思い起こさせる。

松尾で降りて松尾大社へ。本殿の背後、すぐそこに嵐山があって今までにない圧迫感というか力強い印象があった。

神社に参拝するときはいつも緊張する。普段より敬意をもってなにかに向き合い挨拶するということがない。

松尾大社から下がり月読神社へ。ここも嵐山が目前に迫っており、また木々に囲まれていて密やかな佇まいであった。

山の傍であるからなのか、この辺りはひっそりとしており、自然と厳かな気分になる。山に対する信仰が生まれる理由を感じていた。

桂川沿い、堤防を歩いて渡月橋を目指す。川沿いなので風が刺さる。桂川の大きさは石狩川を思い出す。遠くの対岸を眺めながらこの西日に似た風景を思い出していた。

月読神社から渡月橋の辺りまで人通りが少なく、やがて自分がいる場所を忘れかけていた。今がいつなのか、とか。

嵐電に乗って北野天満宮へ向かうことにした。

電車に揺られながら、4年前の誰かの日記を読んでいた。

京都やあるいは別のどこか、前にも見たことがあるようなそうでもないような写真を見ている。これはどの辺りの風景であるとわかる場所がいくつもあることに気がついた。間違いなく誰かが居た場所に自分も居たのだ。いつかの季節に誰かがあの場所から何かを見ていたのだ。何年も前の2月にも京都に雪が降って誰かが京都御苑を訪れていた。刺すような外気から逃れて暖房の効いた車内でだんだんまどろみながら自分が自分でなくなっていって、これから誰かになりすましてどこかへ行くような気がしていた。気がしていただけ。

北野白梅町から北野天満宮へ。梅苑は8日から開かれていた。看板に梅の開花状況が掲げられていた。「つぼみがふくらみはじめ」とあった。そうか、そうだよな、と少しがっかりした。週末にはもう少し咲いているといいのだけれど。あいにく開門時間は過ぎて既に閉門されていたので境内の梅を少し眺めて後にした。

再び北野白梅町から帷子ノ辻を経由して四条大宮へ。千本通を上がっていく。平安京の朱雀大路は28丈 (≒84m) もの道幅があったらしい。

二条駅の近くのパン屋でパウンドケーキを買って帰った。