年末から年明けにかけて地元に帰省したときに初詣に行った。
宗教施設としての神社を観察したい、というのが主たる動機だった。
意外に人は多く、おそらくピークは外しているにも関わらずこの人の量であるとすると、大晦日から元旦にかけてのピークは、やはり相当なものだったろうと思う。
静かではないし、人の喧騒がある中でも、不思議と考え事に没頭できたのは、神社のもつなにかしらか。
いろいろ考えたことはあったが、列が進むにつれて意識するのは、参拝するときになにを考えるか、ということだった。
浅い前提知識しかなかったので、初詣では願い事をするのが習わしである、と思い込んでいた。しかし、願うという行為は存外に重いのではないか、と考え直した。
願いは諦めだ。自分の意思と行動で為すことを放棄し、自分より高等な存在が自分の望んだとおりに満たしてくれることを待つ。
そこに文学的な美しさはあれども、生きた人間としての価値はない。
生きていることを諦めてまで美しさを求めるのならば死ねばよい。死は最高の美徳だ。死ねば美化される。
求めるのならば自らが動かなければ。自由に発想し、創意工夫をしてものごとを為そうとする人間がすべてだ。待つだけの人間を許せない。
そういったことを考えているうちに、自分の精神衛生状態について知ることができた。
信仰は精神のベンチマークなのかもしれない。神のような高次の存在と断固として対決できる状態かどうか。
今年は、そういったベンチマークとしての信仰にもうすこし積極的になってみてもよいかもしれない、と考えた。