この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

ここしばらくずっと目がしぱしぱしている、一日中ディスプレイに向かっているのがよくないからなのかな。JINS PCの度入りのやつが出るらしいからそれをバイト中のあいだだけでも使ってみようか、とおもったけど、今日調べたらWeb先行予約は終了と書いてあって、前まで試すことができたシミュレータみたいなやつが使えなくなっていた。予約はできなくてもシミュレータは使えてもよかったとおもうんだけどなあ。
とにかく目がしぱしぱして夕方になってくるころには15〜30分おきくらいに目を休ませないとしんどくなってくる。ひどいときは昼から目が疲れっぱなしということもある。職業の性質上、目、視力は要であるし、そうでなくとも日常生活において視界を失うというのは重篤な損失であるから、より気を遣わなければいけないなあ、と意識を改めることにした。

今週、誰かと交わした会話の中で自分の生年について喋って、そのときにふと自分が現役で大学に入学していた場合、既に四回生になる頃合いだった、ということに気がついた。実際、小中の同級生はまだ職歴がほとんどなく、大学生、という肩書がついている。小中の同級生、既に婚約している人がいる。まったく人付き合いをしていないから結婚式に呼ばれるとかないだろうが、しかし着実にそういう人生の枝分かれみたいなものがより如実になっていくのだなあ、ということを考えて憂鬱になった。経歴とか年収とかそういうものが人によって変わるのは当たり前のことだけど、それらについて異なる層を横断して、俯瞰したとき、してしまったとき、異なるものをひとつの目で見てしまうことでそれらの違いについて意識させられてしまうのが気持ち悪いし、怖い。そういったものに意識が囚われるのはあまりおもしろくない。そういうのは楽しくないけど、しかし考えさせられてしまう。考えたくないのに考えてしまう。女性の同級生もそのうち結婚して苗字が変わったりするのだろうか、などと考えて暗澹とした気持ちになってくる。
しかし、本当に会いたい人、近況を知りたい人はFacebookなどにはいなくて、それが少し残念である一方、安心もする。彼ら彼女らはここにいちゃいけないとおもう。こういうインターネットでは出会いたくない。インターネットなくして知り合い付き合ってきた彼ら彼女らと出会うインターネットは少なくともこんなところではいやだ。もっと違うインターネットで出会いたい。出会えなくてもよいとおもうけどもしも会えるならダイアリーで会いたいとおもう。

自分の中で信頼というものは1か0か、一か全か、という類のものであるから、そもそも人を信頼する・しないという話は乱暴に過ぎる。いくら人が好くとも、人が好いだけでなにもかもを許すのはあまりに無防備というものであるし、かといって何も許さないのも考えものだ。
そう、許す。人間がなにかと付き合っていくとき、肝要なのは許すということ、許す器量ではないだろうか、と考えている。どれくらい許すのか、どこまで許そう、という気持ちなのか。自分の心の領域をどのように切り取って見せるか。
自分をどのように見せていくか、接する自分と他人との面のありようについて誠実でありたい。