この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

なにか好きなものであっても、その周りのコミュニティが好きであるかというとそうとは限らないし、むしろ中心にあるものが好きであればあるほど、周辺コミュニティはだいぶ好きになれない、みたいな相関が少なくとも自分の中にはある気がする。

たとえば最近、鉄道に乗るという楽しみができたけど、しかし鉄道好きのコミュニティには興味が湧かない。

あるいは、僕はよくRubyを書くしIoとか好きで、最近はHaskellを書くのがたのしい。だけど、少なくともHaskellのコミュニティには入りたいとはおもわない。Rubyのそれにはいろいろなイベントに参加したりして、半ばなし崩し的に属している感があるけど、それでもあまり居心地がよいかんじはしない。

「なにかを愛好する者たちの集まり」は裾野が広すぎて、けっきょくその広大なコミュニティの中でさらに局地的な集まりを探さざるをえない。いわゆる「愛好する気持ち」の階級、つまりそれの強さだとか。そういうものによって自然とクラスわけされる。これは避けがたいものだとおもう。

鉄道趣味についてはそもそも楽しみ方の裾野が広すぎるし、愛好するどころか熱狂している人もいて立ち入りがたいものがある。

Rubyは既に内部にいるのであまりとやかく言えないとおもうけど、うーん、そんなに熱狂している人はいないような。その生い立ちからして、あまり感情移入されるような代物ではなくて、道具のそれとしての距離感を保っている人が多い、気がする。

Haskellは、その点、非常に対照的で、Rubyが道具として扱われているのに対して、作品として扱われている節がある。Haskellを作品と表現することの是非はともかく、たしかに単なる道具とは違う、というか「いま目の前にある仕事をさくっと片付ける」ためのものでは少なくともなさそうだ、というのはわかる。しかし、作品には思想が宿り、作品に感化されるということはその思想に感化されるということでもあり、要するに関わりたくない手合いが多くなりがちでもある。

というようなことを、最近になって (いわゆる) 宗教戦争が目につくかんじがして感じたのだった。

Rubyのコミュニティにある程度属しているようなかんじもあるけど、しかしやっぱり居心地のよさはあまり感じなくて、特に熱狂している人にはちょっと……というかんじ。