この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

髪をきってきた。担当してもらった美容師さんがスキンヘッドで一人称が「僕」で、オーケンに似ていた。声も似ていた。喋り方のクセみたいなものも似ていた。

髪を切るときのちょっとした話だとか、いろいろ聞けて楽しかった。しかし、「学生さんですか?」と聞かれて「フリーターです」とでも言えばよかったのに、専門学校生と答えてしまった。3時に予約を入れる専門学校生がどこにいるというのだ…。

東大の1998年の英語第5問がおもしろい、というのを聞いて過去問を掲載しているサイトで読んでみた。設問は解いてないけど、穴埋めっぽいところとかは脳内で適当にやってみるなどした。おとぎ話、小説の類だった。受験英語は堅い文章が多いので、英語でこういう文章を読むのは新鮮だった。「ピノキオ」なのかな、とおもったけど違った。主人公が魔法使いのおばあさんを助けたお礼に「周りからみた自分が写る鏡」をもらう話。王の娘をさらったドラゴンを倒すのにその鏡を使うところが、バジリスクだかを鏡を使って倒した神話だかを彷彿とさせる話。フィクションだから、というわけではないんだろうけど、見慣れた題材でも言語などの背景が違うだけでずいぶん違う印象を持つんだなあ、とおもった。

実はあと5日もしないで入試があったりする。どうなるんだろう。布団に入ってから危機感というか焦燥感みたいなものが湧きあがってくる。一番怖いことは落ちることよりも、「努力のできない人間」「掲げた目標を達成できない人間」でありつづけるということなんだとおもう。

この期に及んで親から「大学に行きなさい == フリーター、高卒で就職は認めない」とのお達しを受けた。親にしては珍しく意向を露にしてのことなので、これは素直に聞くべきだとおもった。毎度毎度、やりたいことをやらせてあげる、という方針でなんでもやらせてもらってきたので、その報いとしても、二浪してでも大学へ行くべきだろう。

もしも親のこの言葉がなかったら、おれは同志社に落ちたらすっぱりと就職活動をはじめるつもりでいた。大学に行く意志が根絶えたわけではないが、「二浪して私立文系はどうなんだ」「早慶くらいじゃないと格好がつかないんじゃないか」とか、はっきりいってどうしようもないことばかり頭によぎる。そういう状態で大学受験をもう一度、二度、試みても先は暗いと考えたから。

しかし、親の強制力、意思がはたらくとなると別のはなしで、おれは、どんなに惨めなおもいをしようが、どんなに辛い目に遭おうが、達成するという覚悟を改めてしなければならない。

いままで自由に…というより奔放に生きてきたので、こういう強制力に曝されるのはよいことだとおもう。そして、それにストレスを感じ、なおかつそのうえで目標を達成できるのなら、なおよい。

声優がある種のアイドルだというのなら、それにはまっている (というのかわからないけど) ということは既に「アイドルにはまる」というはしかをやったということで、安心だなーとおもった。もちろん、はしかにかかりっぱなしだとなお悪いんだけど!

だいたい興味があるのが、認知科学、およびその周辺 (情報なんとかとか、認知心理学とか) なんだけど、具体的に「この分野でこういうことをやりたい、調べたい」という風には言えない。そういうビジョンがはっきりしている高校生は、ほんとうにすごいなあ、とおもいつつ、一体どの程度いるんだろう、と疑問にもおもう。大学は「明確な目標、疑問を達成、解決するためのところ」なのか、「具体的な疑問や目標を見つけだすところ」なのか、わからない。おれは、大学を後者のような場所だとおもっていて、なおかつ前者だと考える人間と出会える、つまり明確なビジョンを持った人間とも出会える場所だとも考えている。

おれはあまり視野が広い人間ではなく、偏っている人間であるという自覚があって、衝撃的な体験や知識で狭い視野を破壊し拡張していきたいなあ、と考えている。もちろん職に就くというのも、未知の領域であり、それはもう大いなる衝撃が待っているんだろうとはおもうけど、大学生という身分はどうもいい身分におもえるし、大学生という肩書で繋がる世界もありそうだ、とおもうので大学生を体験してみたい。

国語や英語の成績がいいこと、受験勉強でもわりと (知識分野より能力分野において) アドバンテージを握っているのではないかなあ、という点から、自分は文章を読む才能があるんじゃないかとおもっている。勉強などにおいては世の中の人間には、おれよりもっと優れた人間がいるだろう。しかし、重要なのはそんなことではなく、文章を読む才能を自覚することで、文章を読むことが楽しいということだ。

地力で国語や英語でいい点数が取れるやつなんて、くさるほどいるだろう。そしておれはそんなやつらに及ばないだろう。おれが国語や英語という「教科」が好きなのは、「問題文」という題目で「文章を読む」という娯楽にありつけるから、といっても過言ではない。国語や英語の授業や試験を受けるというのは、楽器を弾いたり、アニメを見る時間と変わらない。それで、単位や点数として「評価」されるというのは非常においしい話だ。

「文章を読む才能」というのはちがうかな。「娯楽にカテゴライズされるものが多い == 嫌なことが少ない」というのが正しいのかもしれない。数学はぜんぜん点数がとれる状況ではないけど、問題の解説を読んで、問題の構成や模範解答として示された解答の発想の変遷なんかを見てわくわくする。

そもそも勉強全般が苦手ではあっても好きなことなので、高校に行くことが嫌でたまらなかった理由は勉強したくなかったからではない。勉強したかったから学校に行きたくなかったんだ。

歴史や公民は、知識の貯蓄から、それを活用するステージへ移行するまでやる気を維持するのがたいへんだという点で、とても苦手だ。

しかし、こうして勉強、学習という娯楽にありつけるのはほんとにありがたい。将来、お金をたくさん稼いで、知識欲にあふれる人間にたくさんお金をあげたい。「誰かの為に働く」ということを労働の意義や動機とするならば、おれが最もよく働く「誰か」は、そういう若者だとおもう。若くない人は強い動機になりえない。若い人は時間がある。時間は可能性も能力も広げてくれる可能性をもっている。より可能性のある方に投資したいとおもうことは、まったく自然なことだとおもう。

お金を稼ごう。