テキストプレイ

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

好きで読んでいるブログで「テキストプレイ」というものが紹介されていて実践されていた。詳しいルールはググるなりして、調べてもらうとして、ようするにどれだけ文章を書くという行為を続けられるか、というものらしい。見辛いけど改行はナシというルールみたいだし、なんとなく改行がないほうが情報の密度が感じられたり、あるいは意味のなさそうな文章っぽいし、逆にちゃんと読もうという気にさせないしいいんじゃないだろうか。好きで読んでいるブログ、といったけど、最初のころはLDRには技術系…というのだろうか、JavaScriptRubyなど、興味のある言語でおもしろいことをやっている人のブログを中心に購読していたのだけど、だんだんとつまらなくなってきた。つまらなくなってきたといっても、更新頻度が落ちたとか「彼女できました!」とかリア充日記になってきたわけではない。変化したのは自分のほうが。技術の話題はためになるけど、そこにはある技術に関する豆知識だとかの「情報」しか見えていない。ようするにその情報を提供している人間、エントリを書いている人間の存在を感じていないんだ。JavaScriptのあのライブラリではこういうバグがあるのでこうするといい、という情報はためになるけど、それを書いたのがどんな人間か、なんて知らなくても問題ないし、情報を求めている人はそんなことを知ろうともしないだろう。自分もそうだったんだけど、技術についてブログを書いている人の別の「日記」と呼ぶにふさわしいブログを呼んでいるうちに、どんどん引きこまれていった。その日に撮った写真を載せたり、たまに長くはない文章をもってエントリとしたり。はっきりいって「ため」になるものなんか全然ないのに、それでも「更新されていないか」「ああ、まだか…」と大きく期待している自分がいることに気がついた。あたりまえだが、多大な情報を扱うインターネットもすべては人間が基盤となっている。人間が作ったものだし、運用しているのも人間だ。いくらアプリケーションなどで自動化されていく世界になっているとしても、人間の影が消えることはないんだろう。同じ日本という国か、あるいはそうでなくとも、どこかに人間がいて、一日を過ごし、なにかを思う、そういうことを物理的な距離に阻まれずに知ることができるのは、とても素晴しいことだとおもう。いわゆるデジタルネイティブの世代に被るであろう自分だが、懸念というか、漠然と感じているインターネットへの不安みたいなものある。インターネットは基本的に課金という文化があまりないようにおもえる。まったくのゼロではないが、圧倒的少数だろう。とくに今日はGoogleなどが以前は課金文化が根付いていたソフトウェアやサービス業界に「無料」を武器に焦土作戦に出るニュースが定期的に見られる。とくにGmailの提供開始はなかなか衝撃的だったようにおもえる。Yahoo! や Hotmail など無料のメールサービスは多かったが、その容量の多さやGoogleの「検索エンジン」としてのノウハウを余すことなく投入したラベルなどのしくみは、あっというまに広がっていった。Google Earthなどのサービスを投入し、androidを売りに出すところまできた。対価を求めるGoogleの「商品」だが、開発者向けにSIMロックフリーの端末を「無料で」配ったり、Googleの本質は変わっていない。こういった環境にあって、インターネットで「金銭という対価を求める」ことは、もはやナンセンスな文化として受け入れがたいものとされているようにおもえる。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サービスが、ISDNからADSL、そして光の普及といった、インフラの進化にあわせて登場するとともに、アニメや映画などのアップロード・共有は表向きは違法とし、また利用規約などでも禁止されているが、いまだにそれらの動画の共有は止むことがない。それの背景には「無料でなんでも手に入る」という文化の根深さが関係しているようにおもえる。詳しいソースはまたの機会に出すとして、外国人は動画共有サイトに投稿されたアニメ本編の動画を「合法的に無料で提供されている」ものだと思い込んでいるらしい。それはそうだろう。毎週、放送直後、数時間後には本編がアップロードされていれば、そうした配信サービスのようなものがあると勘違いしてもおかしくはない。