この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

写真の上手下手って何で決まるのかなあって考えていて、写真というフォーマットに執着を持てるかというところはありそうだなと思った。

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帰りにふと電話ボックスを見たら小雨の跡が側面に残っており、それが対向車線からのヘッドライトで光り、それはできすぎなくらいきらきらしていた。

カメラも持っておらずスマフォで一枚撮って、もうちょっと構図とかボケたかんじとか詰められるかなと思ったけどスマフォしかないしな……と思ってそれきりにして帰った。

帰りながら、写真が上手い人はああいう瞬間を逃さず納得いくまで詰められるのだろうなと考え、また、なぜ自分はあそこで踏ん切りをつけて諦められたのかといったことも考えた。

あのきれいな奇跡みたいな瞬間をもう目撃し終わっていて、事後の露払いみたいなものとして写真に収める行為があるだけなので、もう過ぎ去ったものは捉えられないという当たり前の諦観があったのかもしれない。

写真それ自体を表現として考えるというより、自分の視覚や記憶の補助としてしか考えてないからなんだろうな、と思った。

文章もそうでエッセイ風の文章がどうにも苦手。個人的なようでいて読者への視線が残っている。

感動した瞬間から遡った写真も、第四の壁を越えた文章も、感動の時系列や人生という物語の額縁といった自らを規定するフォーマットを壊すことにつまらない掟破りを見て白けてしまう。