この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

めずらしくお酒を飲んだあとで日記を書こうとしている。よくないことを書くかもしれない。梅酒を飲んだ。

お酒を飲むときは大抵ビールで、ビールはソフトドリンクと違って飲み口がきついので、勢い付いて飲みすぎることがないからそうしている。この前、地元に帰ったときに家族と出かけた先で気紛れにスパークリングワインを飲んだときはかなり危うかった。

梅酒は度数が低めなのでまだいい。だけどスパークリングワインはこわい。実際グラスの半分も飲まなかった。飲めなかった。

お酒の失敗は怖い。お酒で失敗したら人としてなにか決定的にダメになってしまうような気がしている。それは家族がそうだったからなのか。
人は進歩しなければいけないと思っていて、未来が今よりも良くなるというイメージが失われたら、そのときは人が生きる意味がなくなってしまうだろう。
未来が今より良くならないのであれば、あらゆる種類の投資が成り立たないしなによりつまらなくて閉塞感が充ちて首が締められていく。

母と電話で話した。妹のこと。はいはい、と聞き流しているうちにいろんなことを考えはじめた。また妹の話か、と思いながら、しかし特にこれといった趣味もない母のことなのだから、息子に電話をかけてする話といったら妹くらいのことだろう。ましてや息子と娘、自分の子供なのだから、気をまわして足りるということはないのだろう。

妹は自分にとっては妹だけど、もちろん妹のことを「妹」と呼んでいるわけではなくて名前で呼んでおり、「妹」は妹であると同時に誰かの娘であり、ひとりの女性だ。

妹のことは大切な家族だけど、しかし心配したりといった気のまわす対象かというと、少し違う気がする。自分は妹を自分より少し未成熟なひとりの人間だと見るだろう。おおむね対等であると見るだろう。

でも母は一生、「妹」のことを娘と見るのだろう。兄である自分から見て妹との距離は少し変わったと思う。だいぶ近づいた。二歳という年の差が相対的に縮んだかもしれない。

母はそうではない。数十歳も離れているし、なにより子と親という関係には無限大の、あるいは限りなくゼロに漸近した距離があるのだろう。

そんなことにふと気付いて、それから実は今までなんとなく聞いていた妹にまつわる話のひとつひとつすべてとても重要なもののように思えた。

母はとても理性的にふるまってきた。感情的になにかをしたりすることはほとんどなかった。聡明というほどではないと思うが、しかし理に適って倫理的に著しく外れたことでなければきちんと聞いてくれた。だいたい納得して認めてくれた。

そういったふるまいに助けられてきたし、ひとりの人間としてとても偉大なふるまいだと思うが、一方で感情的なふるまいを御する術について学んだ機会は少ないように思った。

ありふれた言い方だけど、母は妹を心配していて、でもその心配しているという気持ちを伝えることができていない。

大袈裟な言い方をすれば、自分も妹も、他人が自分に対してなにか強い感情を抱くということに現実味を見出せないのだろう。

理性的な振る舞いに反した振る舞いを見たとき、その裏に感情が渦巻いていることを知ってはいても、本当に目の前で起きているとはなかなか合点がいきにくい。

ほんとうに、言葉にしてしまえばバカバカしいような、記号化されきったとでも言うような話だけど、でも実際に人間として自分や妹はそういうところがあるのだな、ということがわかった。妹はそういうところがある。ということは自分もそうなのだ。そうなのだろう。大抵そうだったし、実感はないけど思い当たることはある。

年をとってきて、手放しに何も考えずに好きとか嫌いとか、気持ちを露にすることに、勝手に作り上げた妄想めいた圧力を感じる。

好きになることに対する社会的責任のようなもの。

もし自分が家族をもつことがあれば、最高の家族でありたい。最高の家族がどんな形なのかはまだイメージができないけれども、とにかくもうけるのであれば最高でありたい。

でも自信がない。帰省して家族と話す度に、よくわからないけどいまこの三人で生活していいなあ、と思う。そういう風になれるのか。そういう風になって、死ぬまで続けられるのか。自信がない。

子供をもうけることの喜びがなんとなくわかる気がする。未来を間近に感じられるのだろう。子供が成長し元気でいれば、小さな未来が少しでもよくなっている実感が得られそうだ。

そうしたら、自分のことだって、あるいはもっと大きな未来だって、よくなるという希望がもてそうだ。