『惑星カロン』にソーシャルネットワーク上の発言を母データとして人格を模倣した人工知能を作るという話が収録されていて、その中で「Web 上の公開された日記は日記ではなく表現である」というようなことが書かれていた。

半分頷ける話で、本文に書いてあるように公開された場に書かれた日記は、もはやこれまでの「日記」と同じものとは呼べず、別の性格を持つだろう。誰かに伝わってしまう可能性を孕むということだ。

一方で、誰かに伝わってしまう可能性を許すということは、表現たりうるだろうかというと、これは疑問が残ると思う。

「表現する」ことは主体と客体と手段、S と V と O の輪郭がはっきりしているものであると言える。

公の場で日記を書くことはなにかが伝わってしまう可能性があるが、書いている本人が「何が」「誰に」伝わるかはほとんど自覚的ではない。帰り道にポップスを歌っていたとして、指向性もなく輪郭も曖昧なそれを表現とは言わないだろう。

自分は公の場に曖昧なままの発散した表現に満たない何かが充満したらきっとおもしろいだろうと信じている。

惑星カロン

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