いろんなところの話を見聞きすると、世の中変わっているようで変わっていないというか、今の自分の働くことに対する考え方はまだまだ容認されなさそう。

ウェブケーの世界を離れようとはあまり思わないけれども、その理由も変わりつつある気がしている。

純粋におもしろいからそう思っていた時間は過ぎて、もはや自分が身に付けたスキルとそれに費した時間を棒に振りたくないから、もっと言えば今の安定さを脅かしたくないから、のような気がする。

刺激が減るのは仕方ないと思うけれど、ほんとうにおもしろさを感じなくなってしまったのかな。鈍くなることと、感じなくなることは、違う。


高校生のころは、もうちょっと早口で喋っていたよなあ。成人してからよりゆっくりになったように思う。成人してから? 会社の人と話しているとそういう風になる気がする。

周りはしっかりとした基盤のある専門家たちで、気を抜くと自分の基盤の脆さだとかを見透かされそうで、あるいは「間違った」ことを言うと軽蔑されるから、どちらにせよ気を張っているのかもしれない。

現に、多少、気を許している同僚の前で失言をする回数が増えた。働きはじめた当初は1日に1回あるかないかだったけれども、最近は多いときだと10回くらいしているかもしれない。言った瞬間に、ああしまった、と思って1ヶ月くらい根にもって反省して、でもその割にはしょっちゅう失言をしているので学びはなくよりたちが悪い。

こうして振り返ると高校生のころまでは、ずいぶん頭を使わずに、気を張らずに生活していたなあ、と思う。

ずっと安全なところで、自分の能力だとかを脅かされることもないところで楽に構えていられた。今でも気を楽にしたいと思うことはあるけれども、前のように戻りたいとは思わない。


自分の文章の書き方もずいぶんと堅苦しくなったな、と思う。

最近、小説と聖書を交互に読んでいて、自分の文章は聖書に似て叙事的だと思った。小説を読むと些細な表現ひとつとっても豊かで、世にはこんなにも巧みに言葉を使って感情を表す人がいるのだなあ、なんてあほみたいなことを考えた。

以前の自分はもうちょっと情緒があって、書く文章にもいま読んでいるような小説に現れる表現のエッセンスを持っていたはず。

最近は写真を撮る気分にもあまりならなくて、それは自転車が楽しいからなのか、暑いからなのか、それともファインダー越しに覗いてもなにも見出せなくなったからなのか。そういう変化を悲しいことだとさえ思えないのが怖い。

自分も周りも老いている。老いは主観的なもので、相対的に社会は新陳代謝を繰り返していくのだと思っていた。自分の年齢が変わっても、自分が見える社会はそのままだと思っていた。

が、そんなことはなくて、14歳のころに見かけた5歳の子どもと、24歳のいま見かけた5歳の子どもは同じようには見えないのは、当たり前か。

それに、こんなことを当人たちの前で口にするのは憚られるが、それでも自分は新たに子どもが生まれていくのを見て悲しい気持ちにならざるをえない。

楽しいことの10倍、100倍、1,000倍、あるいはもっと多くのつらいこと、悲しいこと、苦しいことが待ち受けていて、それらを身に受けていくとは自分の意思とは関係なく宿命づけられていて、周りの呪いめいた祝福におだてられて生きていかなければいけない人がまた増えるのかと思うと、本当に悲しいし怖い。

自分と同じくらい悲しい目に遭うだろうと見るのが過剰に悲観的ならば、自分とは違ってうまくやれるはずだという目論見も過剰に楽観的といわなければならない。

子どもが生まれることは、生まれるだけで、そんなにも手放しに喜べるものなのか? 人の親になったら、それまでは見えていなかったなにかが見えるのか? 人の親になったこともない人も喜んでいるのはなんなのか?

自分の身に置き換えて考えてみれば、自分の所作ひとつで幸せだとか幸せではないとかに大きな影響を与えかねない人が周りに増えて、経済的・実際的な責務も負っていかねばならない人が周りに増えて、それは大袈裟に言っても単に始まりであるようにしか思えない。