この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

天気が良かったので自転車に乗って貴船の方へでかけた。

北山を過ぎたあたりから頭が痛くて、気のせいだろうと思って気にしていなかったけど、だんだんきつくなってきて気分が悪くなってきたので貴船口を過ぎたあたりで引き返した。

ここまで来て、と思ったけど、気分悪いまま貴船神社を眺めても仕方なかろうということで諦めた。

行きは市原バイパスを通って帰りは原峠を通った。

下りを走るときの体重移動のかんじがフルブレーキするときの体重移動と同じなのではと気づいて試した。

市原バイパスを走るとき、ちょっとした坂があったのでケイデンスを保つことを意識して走ったらかなり楽だった。
フロントのインナーを使うことを覚えたことも手伝ったのかもしれない。

いつもこれくらい漕いでいた時でだいたい70-80くらいだということがわかった。
客観的な指標があると判断が鈍らない。きつい坂は記憶や見た目にわかりやすいので意識できるが長く緩い上り坂は肌感覚でも見た目にも意識しづらく、走りづらい平地のように感じてしまう。

平地なので走り込めるはずだと錯覚してギアを落とすことなく走って疲れるということが多かった。

サイコンがあると坂であるかどうかよりも、ケイデンスが下がるか上がるかでギアチェンジをすることになる。

上賀茂のあたりに戻って大田神社を訪れた。杜若の磁器ではなくなっていた。

ここの西陽が零れて射し込む風景が好きだな。

せっかく北まで来たことだし、京見峠の入口を見てこようと思ったが迷った。住宅街だと思っていたらいきなり気の狂ったような斜度の坂が出てきた。

思ったより時間を食ったので今宮神社へ向かった。

ここもいつ来ても人はまばらで、しかしここも穏やかな光にあふれている。
京都市内でもいちばん好きな神社かもしれない。

ぐるっと周りを歩いてまわってみて、大徳寺を少し歩いて、それから帰った。

今宮神社を歩きながら、忘れていたこと、あるいは知らなかったことについて考えた。
今見ているものが自分に突き刺さったとして、突き刺したものは視界すべてかどうか。
自分の目に入る光は限られていて、残しておきたい光とは視界の外にあるのかもしれないし、見えるものすべてではないのかもしれない。


相変わらず鈍いままだけど、少しは見たかったものを見れたような気がする。

帰りに自転車屋でCO2ボンベとブラシを買った。

左手が相変わらずなので、自転車を手入れくらいしか愛情の向かう先がない。