2014年

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

焦りを感じる時が多くなった気がする。落ち着かない週末が多かった。もう時間がない、ってずっと考えていた。

エンジニアとして働きはじめて2年目になるけれど、組織の一員としてのエンジニアという立場を意識した1年だった気がする。

昨年1年が完全にトラウマになっていて、絶対にメチャクチャな状況になりたくない、という恐怖に突き動かされていた。主体性がなければ、他のレイヤによって揺り動かされることがよくわかった。

この人間にはこういうことをやらせる方が合理的である、と周囲にしらしめることが、自分がやりたいことがやれないような望まない状況に身を置かずにすむために必要だ、ということを感じた。

一方で、こうして言葉にしてみれば、「やりたくないことをやらずにすむ」ことに躍起になっていてよいのか、とも思う。

ここ1〜2年くらいで「やりたいこと」と「できること」に乖離が生まれつつあるという自覚はある。

「使う人へのおもてなし」に体系だったやり方を見出して適用してよくしていく、ということをやりたい、と考えていた。UX とか HCD とか、そういうキーワードが浮かぶ分野。

他にも、持続可能で品質の高いソフトウェアを作る、ということはずっと考えている。けれど、これは「やりたいこと」というより、「やらなければいけないこと」のようでもあり、義務であるとも感じているし、ソフトウェアエンジニアとしての命題だと思っている。

最近の「できること」は Infrastructure as Code とか CI とかオートメーションっぽいことである。ルーチンワークをコンピュータに任せることができれば人間はそれだけ別のことに時間を割ける。より直接的な価値を生むことができるはずで、アプリケーションを開発するために1日とか費すのは完全に狂っていると思っているし、そういった意識はきちんと広めなければいけないし、ダサいとかかっこ悪いとかではなくて、完全に狂っていて見込める価値を生み出すことができず我々の価値が損われている、という問題意識はずっと持っているし、解決するための活動はここ1〜2年ほど続けている。

一方で「やりたいこと」がなかなかできなくて、現実逃避のようにやっていたことがだんだん「できること」になってきた。気になるし、それなりに手早くできるようになってきたし、「できること」をやるのは自分の中で納得していることなんだけれども、そもそものモチベーションが後ろ向きだったので、もっと前向きにやりたい、という気持ちがずっと渦巻いている。

足踏みすれば置いていかれるし、もう既にビハインドは大きいと思う。

2015年はやりたくないことをやる恐怖感から解放されて、落ち着いて自分のやりたいことをやりたい。