『桐島、部活やめるってよ』を観た。

関係ないけれど、映画でもアニメでも、にわかに周りが盛り上がっていると、いま観るのはやめておこう、という気持ちになる。単にひねくれているだけのような気もするし、もっとなにかあるような気もするけれど、とにかく『桐島』もそういうかんじで、気になりつつも、いまはやめておこう、と思って観ずに過ごしていた。

タイトルにある『桐島』は伝聞だけでしか描写されず、実際には姿を見せないのがおもしろい、と思った。たかが男子高校生ひとりが部活をやめるくらいでなんでこんなことに、と思う、思ってしまうけれど、「そういうこと」は滅多にあることではないからそう思えてしまうのかもしれなくて、本当はそういう、周りをかき乱してしまうような、ささいな所作や言動ひとつが波風を立たせるような人は、本当はもっといるのかもしれない。

恋人もいて、部活で立身していて、よくもわるくも周りに影響を与える存在感があって、憧れそうな、でも憧れる気持ちの湧いてこないような、よくわからないかんじなのは人間として描かれていないからかもしれない。「桐島」が何を思って部活をやめたか、が話の軸ではなくて、そういう事実から誰がどのように揺らぐのか、あるいは揺らがないか、というのが軸のように思えたので、必然かもしれない。

前半のほうとか、目立つ女子グループがひそひそ笑っているシーンとかで吐きそうになって、観るのをやめてしまおうかと思ったし、具合が悪くなって一時停止したけれど、もうちょっと引いて観てみたらなんとかならないでもなかった。他人のひそひそ声を聞くだけで吐き気がするし、背後から視線を感じるのも気持ち悪くて仕方がない。

「桐島」がいなくなってどたばたするあっち側の人たちのシーンが続いても特に何も感じなくて、ただ「橋本愛さんカワイイなあ」くらいしか考えていなかったけれど、映画部の次回作をどうするか、とかそういう話はあっさりと提示されるわりにとても気になって、気になってというか、没入して観たし、いろいろ「なんだそれ」とか怒りを感じながら顧問の話を聞いた。

自分が重大と考える問題がそれと扱われず、どうでもいい問題が世界規模のトピックになるかんじが懐しかった。どうでもいい他人のこととかが無限に溢れてくるあのかんじ、この体育館ごとふっ飛ぶシーンはないかなー、と思って観ていた。

映画部の前田が吹奏楽部の子 (部長) に対しては引いて、バレー部のあっち側の人たちに対しては怒ったのは、よくわかる気がする。自分と同じように「問題」を抱えていること、それを想像できる相手であること、その「問題」がその人にとって重大であること、そういった共通点が見出すことができれば、こっち側であるし、よくわからないことで騒いでいる彼らはあっち側なのだろうと思う。どちらにいるかは問題ではなくて、自分とは違うところにいる人たちは対岸にいる人たちに対する想像力が欠けている。映画部も「桐島」で騒いでいるやつら、どっちもそう。けれど、力があって、身を立てている人たちは、自分たちより下の人間は自分と同じようにものを考える人間だと想像できないから、隕石を平気で壊せるし、「桐島」がいなくなったことで戸惑わない人たちに苛立つ。映画部も「桐島」の周りで騒いでいるやつらも、だいたい同じくらいに想像力が欠けている。だいたいニュートラルだと思うけどこの映画は映画部やこっち側に対してバイアスがわずかながらもかかっている。あっち側のあいつらにも、いろいろある、残念ながら、あるいは驚くべきことに。でも自分は、おれはあいつらのような人間のことを想像したくない。あいつらはずっと他人を使うことで、不安をごまかしたり、自らの身を立ててきたのだ。否が応でも不安と直接対峙してきた自分が、いまさら他人の、あっち側のやつらのことまで考える道理なんてない、と思いたい。それに、あいつらには「桐島」がいない不安や動揺をごまかすための人間が周りにいっぱいいるから、そいつらを使っていればいいじゃないか、と思う。

だから、屋上のシーンが一番好き。ゾンビがかすみの頚動脈を噛み千切って殺すシーンが一番よかった。そいつも殺してしまえ、と思っていた。

ドラフトの話、映画監督の話は、別に大袈裟なことではなくて、考えているやつはいくらでもいる。ただ、あっち側のやつらは「特別」だったので、考えずに済んでいただけのことだと思う。別に考えたくなければ考えなくていいのだ、いままであいつらがそうしてきたのだし。

久しぶりに吹奏楽をみて、ああ、いいなあ、と思った。