この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

退職する人を見たり、転職する人を見たりすることがわりと頻繁にある業界なので、たまに自分はいまの会社でどれくらい働くのだろう、とか、もしもいまの会社を離れるとしたら次はどこでなにをするのだろう、とか考えたりする。

東京および近郊には絶対に近付きたくないし、収入がn倍になるとしてもそれが安定しなければ魅力に欠けるところがあるのではないか。短期的に収入が増えてもそれが継続しなければ生活を乱されるだけで長期的にみると自分の生活や価値観というものに傷をつけるだけだと思う。

冗談でn千万円以上の年収が得られるならば東京で働いてもいいや、なんて言ったりするけれど、やっぱり冗談でしかなくて、それが長続きしなければけっきょく東京で人権を失うだけだ。

収入がどれくらい多いか、と、なにをするか、しか判断材料にあがらなくて、なかなかおもしろいことをやっている、おもしろいことができそうなところというのはなかなか見つけることができない。

IT 業界はだいぶ成熟してきてきちんと利益を生み出せるところが競争で生き残りつつあってだいぶふるいにかけられつつあるように見える。あたりまえといえばあたりまえだろうが、けっきょくまっとうにお金を稼ぐことができるところだけが残っている。

新しいプラットフォームに立っているけれど経済のパラダイムは変わっていなくて、新しいプラットフォームでいままでのやりなおしをしているようにみえる。それはそれでプラットフォームゲームの正しいあそびかたなのかもしれない。

お金を稼がなくても、お金が稼げなくても楽しいことはあるはずで、生きるとか死ぬとか、そういうことから離れてとにかく楽しいこと、おもしろいことについて考えられるようにしたい、と思う。そういうことは、けっきょくいまある経済の仕組みに則ってやるのはむずかしい気がしている。もしかしたらうまくやれるのかもしれない。でも自分はうまくできない。

だから、村でも宇宙でもいいからとにかく作ってみて、そこをワンダーランドにしたい。その世界には、そこでだけ価値があるものをもらったりあげたりして「嬉しい」と思うことができる。そこから一歩外に出ると、ジュースも買えないし地下鉄にも乗れない。けれど、たとえば自分の情けない愚痴を公開された場に書いてみたら共感したのか憐れんだのか、よくわからないけれど☆が降ってきた。わけがわからないけれど、☆がつくとなんとなく嬉しいかんじがするだろうと思う。それでいいと思う。☆がついたことで終電を逃したあとで乗ったタクシー代は払えないし、ずっとほしいと思っていた新刊も買えないけれど、うれしいことを求めるのに、生きるとか、死ぬとか、考えなくてもよいと思う。うれしいことがほしいときには、うれしい、うれしくなりたい、と言えばいいのであって、生きていたい、とか、死にたくない、とか、死にたい、とか、生きていたい、とか言う必要はないはず。

なにを言いたかったわからないけれど、自分で書いてみて意味がわからないことを、誰かが読んで意味がわかるのか、わからないのか、はたして知ることはできないけれど、それでも「おもしろい」とか「よかった」とか思うことがあるのなら、それはとても奇妙でステキで意味がわからないと思う。なにもかも解き明かされる必要はなくて、おもしろいならおもしろいでよいし、たのしいならたのしい、それでよい。おもしろいこと、たのしいこと、うれしいことは、それだけで尊いものなのだから、それ以上の意味などなくてよい。