奈良

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

5時半くらいに寒くて目が覚めて思い切り伸びをしたら地震があった。それとわかるほどの大きさだった。Nexus 10 を手にとって震源をみたら淡路島とあって不安になった。

広島のほうも揺れたみたいなので、大丈夫だろう、と思いつつも連絡して安否確認をする。時間とか震源に不安を煽られて眠いと思いつつ1時間くらい起きて、そのあと二度寝する。

起きて11時ごろ、いい時間なのでシャワーを浴びたりして出かける準備をする。

烏丸御池まで歩いて地下鉄で京都駅へ、近鉄特急に乗って大和西大寺まで。はじめて近鉄の特急に乗ったのは単に興味があったからというだけではなく、普通電車の客層が最悪だった経験を思い返してみてあんな電車に乗って1時間以上も揺られるなんて耐え難かったからでもある。

近鉄特急の車両は新車というわけではなかったけれども、見た目より社内はずっと手入れされていてきれいだった。線形がさほど悪いとも良いとも言えないだろうが、そこそこの速度で住宅街や開けた田園地帯を駆け抜けていくさまはなかなかに気持ちがよかった。

大和西大寺に到着して友人と合流する。正直なところ特急停車駅とはいえもっと閑散としている想像をしていたので、いわゆるエキナカ施設が充実していることに驚きを隠せなかった。

まず展望エリアに案内される。阪急淡路駅のような平面交差のある駅で、近鉄の通勤形や特急形だけではなく阪神の車両や (今回目にすることはできなかったけれど) 京都市営地下鉄の車両を眺めることができることができる場所でいきなり素晴らしいところへ連れていってもらえて嬉しかった。このままずっと眺めて京都市営地下鉄の車両を見てみたい気持ちでもあった。

比較的近い平城宮を見にいこうということになった。駅の中は賑わっていたが、外へ出てみると街のつくりは、言ってしまえば田舎だった。人の流れをうまくさばく設計を知らないままにただただ利用する人が増えてしまったような、そんな不恰好な建物や道路の並び・配置がまさに田舎だった。

自分の地元 (北海道、旭川) のほうが人口は少ないだろうし賑わいという点ではずっと規模の小さい街だろうと思うが、旭川には電化された路線はほとんどなくて、そもそも鉄道が市内移動の足にはなっていなかった。自分の中で、LRT や地下鉄を含む鉄道が街を移動する重要な交通手段として発達しているということが近代的な都市の定義のひとつとなっているところがあるので、旭川は (近代的な都市ではないという意味の) 田舎であるということは間違いがないのだけれど、奈良は電化された私鉄が走っているのにも関わらずショッピングモールや人々の生活のスピードなんかは田舎のそれであるのが、とてもギャップがあっておもしろかった。

歩道は狭く、というか存在しないところもあって、茨木を彷彿とさせた。

平城宮、周りはただの公園という風で人々が穏やかにスポーツや花見をしていておもしろかった。ただの公園といってもとにかく広くて笑ってしまうほどだった。京都はいろいろ見所のある街だと思うが、とにかく開けたかんじ、広さに欠けるところばかりであるので、無限に広がるような広さを感じる公園のような風景は圧倒的ですらあった。

朱雀門を眺めたりして観光らしいようなことをしてみた。東大寺のほうへ行ってみようか、という話をしていたけれどとてもお腹が減っていたのでイトーヨーカドーに入ってみる。ジャスコに駆逐されずにこのような「由緒正しい」百貨店が残っているのはなんとなく奈良の維持を感じる。

イトーヨーカドー、謎のコンテンツ性があってゲラゲラ笑っていた。たぶんひとりで来たら体調を崩していた。ふつうの観光っぽくないし、ふつうの観光だとそもそも来ないだろうけれど、だからこそ来る意義があったと思う。こういう場所に来てゲラゲラ笑うという観光もあってよいはずだし、ふつうの観光地を訪れてする観光はそれができる相手とすればよい。

中に入っていた珈琲館で食事をとる。自分では緩まぬように気を張っていたつもりなのだけれども、「浮かれてるね」と言われた。「浮かれてるね」と言われてはじめて浮かれているということに気がついたのでよっぽどのことだったと思う。取り繕っても仕方なし、とだいぶ恥ずかしい話をしたと思う。最近買った Nexus 10 で自分の撮った写真を眺めながら (見せながら) 最高だ、みたいなことを言っていた気がする。お酒も入らずだいぶひどいかんじだった。

端的にまとめると「好きな人の写真を撮るのはよい」みたいな話をした。あと気に入った写真があったら良い紙を買ってプリントしろ、とも。写真を撮りはじめてわずかながら年月を重ねてきたものの、まだプリントはしたことがなくて、プリンタがないとかいろいろ言い訳はできるのだけれども、結局のところ本当にプリントして残したいものを写真に収めてこなかったのだと思う。Nexus 10, 写真を眺めるのにも手頃でよいデバイスなのだけれども、なんというかそれに満足したくない、飽き足らないな、という気持ちが募っているかもしれない、ということを自覚した。

ヨーカドーを出て大極殿へ戻る。「ライジングサン (ロックフェスティバル) みたいだ」と言っていた。こういう風景なのか、としばし想像してみる。天皇の参賀に使われていた、という説明書きを読んで、やはりこれがロックフェスティバルの原風景なのではないか、といった話をした。

近くのバス停がおしゃれだった。

ならファミリーという、ジャスコと近鉄百貨店が合わさったような商業施設に入る。近鉄百貨店から感じるちょっとした高級感みたいなものがむなしくさえあった。

フードコートに入っているサーティワンでアイスを買って話をする。ソフトウェアの話、就職活動の話、学生の話。積もる話があったというわけではなかったと思うけれど、お互い、Web の様子を見ながら生活していて、それは単に趣味に留まらないところがあるので、話題に尽きないところがある。

人間関係の話も聞いた。経済的に自立しているかそうでないか、中長期的な視野を持っているかそうでないか。世の中、単純に優劣をつけることができればまだ楽なほうで、実際のところはバランスや立ち回りの問題ばかりだと思う。友人の話を聞いて、理解を得るのは大変そうだなあ、と思いつつそこまで同情はしなかった。最近、ものごとを語るときに、あるものが、自分は好きか嫌いか、ということと、価値がある・素晴しいかどうか、ということを区別しなければならない、ということを主張している人がいて、ずっと自分が気をつけていることでもあったので共感できた、ということを話した。

自分は学生というものが嫌いで、いろいろ嫌いな理由はあるし挙げればきりがないし、経済的に自立もしていないのにあれこれ考えたりなにかしている様子を見て「学生の分際で」と鬱陶しく思ったりすることはあるけれど、一方で長い目でみて社会と関わろうとする姿勢は辛抱強くて価値のある生き方だとも思っている。そういうことは自分はできなかったし尊敬するところではあるけれど、総合的に見て嫌いだ。好きになる必要はないけれど、認めてもらえたらいいね、というようなことを話した。

ここでも「やはり浮かれている」と言われた。ぐうの音も出ない。

すぐそばの店で挽きたてのコーヒーを売っていたので友人がおごってくれた。なぜおごってもらったのか、よくわからなかったけれど、あまりコーヒーに対する舌が肥えていない自分でも美味しいと感じるほどのものだった。

閉店の時刻になったのでタリーズでジンジャーミルクティーを買って出る。しかし落ち着いて話ができるような場所もなかったので駅前のスターバックスへ入る。そのためにジンジャーミルクティーを一気飲みした。

友人とは実に不思議な縁で、いまでもこういう風に関係が続いているのが不思議なできごとのように思える。自分は特別におもしろい属性もないのにどうして、というような気持ち。でも、人間関係にさほど特別なことなんて必要はないのかもしれない。なんとなく続いたり、なんとなく途切れたりするのかもしれない。

自分はとにかく人間関係を持続させるということが、ひとつ、大きなストレス源であるので、たとえば学校の卒業というイベントと共にとにかく人間関係をぶちぶちと切ってきた。でも、こちらにやってきてできた多くない友人との関係は、年々訪れる節目を過ぎても繋げていきたい、と思っている。ということを友人に伝えたりもした。

たぶん、以前の自分はこういったことは伝えようとしなかったと思う。そういうことを考えていても、そのうち伝わればいいな、伝わらなかったら伝わらなかったでまあいいか、という気持ちしか湧いてこなかった。

これは、恋人と関わっていて変わったところだと思う。表現しなければ伝わらない、斜に構えていては伝わらない、といったことを感じて、きちんと伝えたい相手に、伝えたいことを、きちんと伝えよう、と思ったのだ。だから、そうした。

帰り際、「お前には絶対に不幸が訪れる」「お前の人生がそうそううまく行くはずがない」と言われた。友人なりのひねくれた「幸せそうですね」という祝福、のようなものであると解釈した。浮かれておめでたい頭はこう考える。