愛されつづけるものをつくること

cf. 闇 Advent Calendar 2013



ひとつのものを好きでいつづけること

高校生のころに初めて聞いて以来ずっと凛として時雨のファンで、リリースされた作品は必ずチェックして購入しているし、ライブには自分の都合が許す限り観てきた。

今年の6月に活動10周年を迎えた彼らはツアーファイナルの公演を日本武道館で行うことをアナウンスし、安定した収入を得ることができるようになった自分は新幹線に乗って関西から遠征することに決めた。

ライトワークの素晴らしさだとかたくさん語りたいことはあるけれど、最も印象的だったのは7曲目に演奏した“O.F.T”という曲だった。

この曲は2005年に中野 Records からリリースされた初めてのアルバム“#4”の6曲目に収録されている。いまからおよそ8年前である。

彼らもレパートリーが増え、相対的に「昔の曲」をやる機会が減ってきた。それ自体に大した感傷はなかったけれども、彼らの活動のうち半分以上を眺め、ささやかながら応援してきた身としては2008年秋のツアーで耳にして以来だったその曲を、この節目となる公演で再び聞けることにいたく感動した。

つまり“O.F.T”は「昔の曲」にはなっていなくて、彼らにとっても自分にとっても「今」のものであることに感動し安心した。

「昔」のものではなく変わらず「今」のものであるということに「安心する」ということはどういうことだろうか。

言い換えると自分がこの曲を好きでいつづけることに希望が持てたということだ。

好きでいることとはあるひとつの何かを他のものとは違うと認識し取り扱うということ。

形あるものはいずれ崩れ滅びる運命にあるというが、では好きなロックバンドは?ファーストアルバムの6曲目は?それらを好きであるという気持ちは?

愛が滅びるということはどのような現象なのか?そんな風景は未だ見たことがない。

廃れるソフトウェア技術

ソフトウェア技術は発展著しく、いまなお変化を止めることがない。

むしろソフトウェア技術とは既存のあらゆる技術に対して「変化しつづける」「変化に耐え続ける」というカウンターカルチャーを提示するために生まれ存在しているのではないか。

変化を止めることがないということは循環しつづけているということで、つまり日々さまざまなものが死に生まれているということでもある。

昨日生まれた技術が明日に見向きもされなくなるかもしれないし、自分が親しんだ技術がいつ廃れるともわからない。

まったく確実なものなどなにひとつない。

消えゆく Web サービス

収支が立たなかったり、作った人が飽きたり、巨人が参入してきたり、とにかく Web サービスが終了する理由など星の数ほどある。

自分がどれほど愛していたとしても、熱心に課金していたとしても、ブログや SNS で褒めて他人に薦めていたとしても、終わってしまうものは終わってしまう。

データの移行に泡食う人々、壊れる URL.

ひとつのものを長く手入れすること

ラピッド・プロトタイピング

動くコードを書くことが正義であり、たとえ浅はかな設計でも、その場しのぎで先の暗いコードでも、動いているならば、それが必要とされるときに書いたいつかの誰かが正しい。

なんにせよその時に自分がそのコードを書けなかったのならばその人が正しくてお前は正しくない。

では時が経ちそのソフトウェアを取り巻く環境が移り変わり、元々そのコードがもたらしていた価値が薄れつつあるとき、それをいつかの誰かではなく他でもない今のオレがオマエが私が君があなたが僕が直す。価値は失われなかった。めでたし。

その時に暗く翳った気持ちが脳裏をよぎる。

「元々このコードを書いたのは自分ではない。このコードが動きはじめたのは自分ではない誰かのおかげだ。でも動かなくなりつつあった。それを直したのは自分だが、これは他人の成果に乗っているだけなのだろうか」

賞味期限

コードには賞味期限がある。それの長いコードを書くことができる人もいればできない人もいる。それに対して指向する人もいればしていない人もいる。コードを書く能力のすべてではないが、要素のひとつではありうる。

コードの賞味期限が切れる前に改められなければいけない。コードが織り成すソフトウェアがもたらす価値を絶やさないためにずっと絶え間なく行われていかなければいけない営みでもある。

ソフトウェアやそれが一端を成すサービスは常に変化しつづけるのでソフトウェアそれらに求められる価値の定義は変わりうる。

価値の定義を知り改善を続ける今の人々だけがコントリビュータであり、栄誉は彼らだけのものである。

ソフトウェアは連続しているがソフトウェア開発における栄誉は連続しない。

そうでなければ長く存在するソフトウェアに貢献する意味などあるのだろうか。報われることなんてあるのだろうか。

遷宮

コードの危うさを感知できたとして、その危うさをすぐに解決できるとは限らない。

コードを健全に保つことでもたらされる価値は短期的なものではないので、ごく狭い視点では利益が減るからだ。

しかしソフトウェア開発において長期的な視点に立っての利益について言及されるときとは、大抵は出世払いで借り上げた負債の返済を取り立てられたときくらいのものだろう。

返済に困り果てた末にとるのは自己破産、コードベースをほぼすべて破棄してフルスクラッチで書き直す。

無計画さゆえにこのようなことが起きるのであればいっそのこと計画的に壊し作り直すのも手だろう。それを古来より行ってきており、遷宮と言う。

希望と絶望、そして愛

長く使われるソフトウェア、そしてそれを介して直接的・間接的に人々の生活に価値をもたらす Web サービスを提供すること。

しかしいかんともしがたい理由で Web サービスの提供は終了し、Web に表れた URL は死に、ソフトウェアは破綻していく。

Web やソフトウェアの世界でなにかを愛しつづけることは無駄なのか?破綻したソフトウェアを前にしてなにか為す術はないのか?愛しつづけること・貢献しつづけることに報いはないのか?

そんなことはないはずだ。絶望で終わらせたくない。なにより自分が救われたい。救いたい。

いまはただ Web 日記ツールを作り続けることだけが「なにかを作る」という実感の湧く活動であり唯一の希望となった。