アジャイル・サムライ』、「ちょいまち……」とか言い出すわけのわからないキャラクターが出てくるのがおもしろくて読みすすめたけど、そんなにためにならなかったとおもう。内容が入ってこなかった。「ほしいもの」にある程度自覚的な「顧客」と対話的にものをつくる、という過程に現実味が湧かない。

受託開発に限った話ではないとおもうけれど、「なにがほしいか」「なにを求めているか」ということについて、ほとんどの人々は正しく自覚できていない。『アジャイル・サムライ』は人間がそういった欲求について正しく理解できているという見地に立って話が進められていた。本当はきちんと理解できているのだけれども、今までの作業過程ではそれを正しく汲み取れなかったから、継続的に顧客にプロダクトを見せて柔軟にプロダクトの開発方針の舵取りをしよう、みたいな話だった。

人間は、自身が何を求めているか、ということについてほとんど正しく理解できないのではないか。正しいのは「解決できずに残った問題」くらいであって、それをプロダクトのプロバイダがいかに汲み上げるか、あるいは汲み上げられるかどうか、ということが肝要だ。アジャイル開発手法というのは、その後に続く過程についての方法論だとおもう。

しかし、そもそもの話だけれど、ユーザ (顧客というのは好きじゃない) が求めているものがただ存在するだけでよいのだろうか、という話がある。「これがほしい」「つくります」というだけでよいのか。

マネタイズが〜という話以前の問題で、要するにいまは求められているけど、それは1年後、5年後、10年後、半世紀後、1世紀後も使われうるものか、ということである。1ヶ月で飽きられて当初想定していたユーザが離れてしまうようなものをつくる価値とはなんだったのか。ユーザの欲求を汲み取るだけではだめで、ユーザの欲求に継続的に対応していかなければならない。自分たちのプロダクトを、あるいは他のプロダクトを使っていく中でユーザの欲求の変化を長期的に予想できなければいけない。もちろんユーザだけではなくて環境 (法制度、経済、など) の変化も見据えないといけない。

一発大きなヤマを当てるようなプロダクトより、継続的に使われるものを作ること、使うことに魅力を感じているので、やはりずっと使われるものとは、ということを考える。たとえプロダクトのコンセプトが素晴らしくて、ユーザもそれを求めていても、法規制ひとつで台無しになってしまうかもしれない。人の世で息の長いものを作ろうとすることは長寿への憧憬に通じ、つまり不老不死、寿命への挑戦である。不老不死は神への反逆だからやめるべきだとか、そういう話ではなくて、テセウスの船よろしく、継続的に提供されうるプロダクトは少なからず更新されていき、たとえばそれが会社という組織であれば人の入れ替わりは起こるし、コードで記述されたプログラムであればコードベースはどんどん書き変わっていく。

では何を不変とすべきなのか。あるいは何が変わるべきなのか。不変であるべしと定められたものこそプロダクトのアイデンティティであり、何をアイデンティティとすべきなのか。それ以外は必要であれば捨てられ、変わっていくべきだとおもう。プログラムのコードを捨ててスクラッチから書き直すことが悪なのではなく、スクラッチから書き直すことでプロダクトのアイデンティティの定義に失敗したことを正視しないことが悪なのだ。

書いていてプロダクトとかユーザとか、そういう言葉があまり好きではないことを思い出してきた。

プロダクトのアイデンティティが守られるためにはあらゆるコストを払ってしかるべきだし、逆にアイデンティティを損ねるものはそのプロダクトに存在すべきではない。

しかし言うは易し、という話で、お金儲けの話が出てくると様々な面で折衷しないといけなくなってくる。純粋主義的な思想・姿勢はその純粋さゆえにお金を儲けるという異なる思想、行為、市場と相性が悪い。

ほとんどの人間はさほど優れた先見性を持っていないので、たいていのプロダクトは少なからず矛盾や失敗を抱えている。それらが大きくなると頓挫する。矛盾を孕まず、失敗を避け、頓挫しないプロダクトを作るにはどうすればよいか。プロダクトのアイデンティティをできるだけ小さく保つ。アイデンティティを持たないもの、つまり存在しないものは失敗しようがない。ただの詭弁だろうか?

インターネットの世界だけを見渡しても無数のWebページ、Webサービスなどが溢れている。オフラインとクロスオーバーするアプリケーションやサービスも存在する。しかし日常的に扱うものはどれだけあるか。母数に比してそのなんと少ないことよ。では世の中にはゴミのようなもので溢れているのだろうか。そうは思わない。なにかを日常的に扱うということは、それに影響を受けて生きるということで、生き方を変えるということだ。Twitterを日常的に利用する人は、それのない生活とある生活を比べてみれば、まるで違うことが予想できるとおもう。読書、サイクリング、Facebook, なんでもいい。それらがあるのとないのとでは、違って見える。人の日常に在るということはそういうことなのだろう。

息の長い、人と共にあるものを作るということは、頑なでありがちな生き方の様式をときほぐし、ゆっくりととけこみ、徐々に存在感を増す、そういった高度に研ぎ澄まされたものを作るということ。誰かの生き方を変えるということの大きさは婚姻や死去、誕生など人の世でずっと語り継がれている。人が人の身にあらぬものを用いて人の生き方を変えるということについて、もっと誠実かつ厳粛に受け止めて考えていかねばならない。