自由にできるお金がいくらかあり、所属に特に縛られることもないから、その気になれば顔を合わせてみたい人すべてと会うことだって、むずかしくないだろう。

しかし、どんな人なんだろうか、と想像するドキドキ、不安、そういうのを大切にしたい。

人の感覚は摩耗してしまう。体験は感覚の消費だとおもう。創造というのは自分のかたちを削って形を変える行為であり、形の変わった自分がなにかと接し、触れた感触の変化を楽しめる、体力回復アイテムみたいなものだとおもう。

なにかを食べてなにかを排泄し、栄養を摂取する。創造というのも大仰だけど、けっきょくうんこが音楽とかコードに置き換わったくらいで、世の中の一部にはきれいなうんこを出せる人間もいるのだ、というだけの話なんだ。

しかしきれいなうんこだけがすべてではなくて、そうではない雑菌の多い、色の悪い、悪臭を放つ、「ふつうの」うんこに価値を感じる人もいる。ものごとと価値は元来より別にあって、うんこだから価値がない、汚いというわけではなくて、単に菌が多いだとか、汚いとか、色がよくないとか、そういう性質から総合してよくない、などと判断しているだけだ。

道端でおもむろにうんこをして放置するといろんな人からたくさん怒られる。そして、「外でうんこをするな」とか、「もう二度とするな」と言われる。人はそれを聞いて、道端でうんこをすることはよくないことだ、もうしない、と嚥下するだろう。
しかし、道端でうんこをしても咎めなかったり、知らないふりをしたり、あまつさえまじまじと見て形や色についていろいろ思ったり、涙を流す人もいる。
だからといってそのうんこに普遍的な価値、認められるべきなにかがあるとはおもわない。しかし、普遍的に通じる価値を持たずともそこにあることができる、という世界もある。

100人いて1人しか欲しいとおもわないようなものであっても、99人が欲する価値であっても、プレゼンスに違いはあれど、たしかにそこにあることができる、という世界がある。
99人に屈する必要のない世界がある。1人であってもよい。そして、やがて1人が3人、10人、90人となっていくかもしれない。そういう可能性のある世界がある。

質のよい孤独を得られる場所、というものについてもっと考えたい。