「他人に迷惑をかけないこと」と「他人に誠実であること」は近いようで遠い気がする。

「他人に迷惑をかけない」という思考はとてもよくなくて、他人に迷惑さえかけなければいい、という発想に落ち着きがち。
他人に迷惑をかけていないからといって、他人を幸せにしているわけではないから、悪いことではないかもしれないけど特別いいことでもない。
他人に悪いことをしないように心がけるのは悪くないけどよくもない。不可ではなく可くらい。優良とかではない。

悪いことをしないようにしようという思考は悪くないことが良いことだという錯覚を呼ぶという点でとても悪い。
より優れたこと良いことをするときはリスクがつきもので、そういうときには成功したときの成果と失敗したときの損失をきちんと計量されているかが重要になる。
悪くないことが最良で悪いことが最悪だという風になると、人がリスクを背負えなくなる。リスクを背負えなくなるということはなにもできなくなるということになる。
なにもできなくなると死ぬ。なにもせずに死ぬ。なにもせずに死ぬ場合でもすぐに死ぬわけではなくて平均寿命くらいは生きると想定されるので、80年近くに渡って、食糧やエネルギーなどが浪費される。浪費されるだけでなにもよい方向には絶対に変わらない。それなら生まれてこなければよかったし最初から生きなければよかった。

生まれてきて蟻を踏み潰したり牛を殺して食べたり下水にいろいろ垂れ流したりするのだったら、人は少なくともひとつなにかを作りあげるべきだし、なにかを変えるべきだとおもう。

人がなにかを作ることはまったく難しくないのに難しいと思われることがあるのなら、そういった状況は完全に狂っているしまずそういった風潮を変えておく必要がある。

人がなにかを作ることはまったく特別ではなく、単に消費するだけの人たちが特別なのだ。特別な、喋れるシュレッダーなのだ。考えられる消化器官なのだ。それらは人じゃない。消化器官などは人じゃないから消化器官のことを考えずに生活してよいとおもう。
しかしよく考えると消化器官といいつつ、取り入れた物質を消化液で別の物質へと変化させているわけだから消費ともまた違う。
ブラックホールだ。その人の後にはなにも残らない。なにも残さないただの現象が喋り、食べているだけだった。

どれだけ他人から迷惑をかけられても、「でもこれおもしろいでしょ」って言われて見せられた成果がおもしろかったら許せるし、おもしろくなかったらおもしろくして出直せって怒ればいいし、それだけでいいのではないかとおもう。
迷惑をかけるくらいで怒るのがよくない。京都市内は歩道を平気で自転車が走っていて危なくて迷惑だけど、もしも自転車で走っている人が歩道を高速で走行することでおもしろいことができるというのなら許せる。おもしろいことやかっこいいことがあったら大体許すということにしておけばみんなおもしろいことやかっこいいことをしたがるしそういう風になればいいとおもう。
人はこういうことを迷惑に思うっていう知識はまったく役に立たないけど、人はこういうことをかっこいいとかおもしろいと思うという知識は役に立つ。
役に立たないことを覚えていても仕方ないから役に立つことやおもしろいことばっかり考えて、おもしろいことをしていればなんとかなる、お金が降ってきて食べ物が降ってくる、という風にすればおもしろいことばっかりになって便利になる。
みんながおもしろいことをやるようになったら、おもしろいことだけで生きていこうとする人がもっとおもしろくなってそれが普通の人にも伝播しておもしろさの底上げがなされる。いいことしかない。

原発のこととか地震のこととかずっと考えていたい人はひとりもいないとおもう。原発とか地震のことを考えたくない、って言ったら、考えなくていいよ、って言えないと危険。
つらいかんじがするけど、他にもっとつらいかんじの人がいるから、つらいって言うのやめよう、みたいなの、よくない。他人のことを考えるの、リソースに余裕がある人が暇潰しみたいなかんじでやればいいとおもうし、それができないからといって悪い、だめだ、みたいになると自分のこともちゃんと省みることができなくなって、みんなだめになってぐしゃっと潰れてしまいそう。

もっと自分のことばっかり考えていいと思う。自分のこともよくわかってないレベル5くらいの脳で他人のことを考えてもレベル5くらいのことしか思いつかないし、レベル5くらいのアドバイスとか心配もらってもレベル5の進歩しか生まない。他人のことを考えるの、すごく難しくて高度な知的活動だとおもう。そういうのは脳のレベルが80くらいまで高まった人がやればいい。
身に余る心配とかしても身に余るだけで何の成果も期待できないし、もっと自分のことばっかり考えたらいいとおもう。