この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

距離をとることがいちばんうまいやりかただとおもってきたし、いまでもほとんどの場面で距離をじゅうぶんにとることは賢いやりかただとおもっている。でも、正しさとか賢明さとか、そういうものがはたして何の役に立ったことがあるだろうか。

正しい生き方やより賢明な生き方はいくらか知っているし、いくらか実践している。けどなにも楽しくないし、生活が楽になるわけでもない。特に非合理的なことばかりする人間同士の、これまた非合理的な関わり合いについて、正しさとかは毛ほどの役にも立たない。むしろ、ある見方に立っての正しさは害悪ですらあったりもする。

自分がほかの人間に馬鹿にされないためだけに打ち立てた正しさはどれほどの価値があるというのだ。馬鹿にされないためになにかをやって馬鹿にされなかった試しがあるのか? そもそも明白に馬鹿にされたという経験があるのか? 被害妄想ではないのか? 斜に構えたような態度でその実、なにを考えてきたんだ?

心配なら心配だと言い、気になるなら気になると言い、会いたいなら会いたいと言い、もっと、輪郭のあやふやな誰かの視線より、社会の大きさに霞んでしまいそうなほどに小さな、しかしはっきりと目の前に立つひとりを見ろよ……。

言葉にしておかしくなるものがあるなら、ぜんぶおかしくなっちゃえばいいよ。そんなのきっといらないから、もっと、人を、目の前にいる人を見たらいい。

誰かの何かを台無しにしてしまうかもしれない。でも誰かって誰だ? 何かって何だ? それより心でわだかまっているものに従って声をあげてみればいいんじゃないかな! いいよ、いいよ。いいよ、いいよ。

はっきりと言うべきだね。