写真を撮るというのは、ファインダーを覗くという行為のイメージなどから、能動的に他者を暴こうとするようなものだと考えられたりするけれど、実際にいろいろ考えながら写真を撮っていておもうのは、「覗こう」「暴こう」とおもってもなんらおもしろい写真は撮れないし、それどころか強く拒絶されるなあ、ということだ。

うまく言えないが、写真を撮るという行為は独り言に近い。「今日、あいつがおれを馬鹿にしてきた」とか「かわいい女子高生いた、この国も安泰だ」とか、そういうことを考えながらシャッターを切る。そういった独白が写真に表れることはまずないし、おれの写真表現の中でさしあたって大きな意味があるとはおもえないが、それでもそうすることが自然に感じられる。

あるいは「覗く」ことではなく「露出する」ことなのかもしれない。自分の中でわだかまっているものを、自分になんら関心を寄せることのない相手にさらけだす。濁った心の内を先ず見せるという心意気を示すことが、写真を撮るという野蛮な行為に及ぶ上でのせめてもの礼儀だからだ。

おれは写真を撮ることをとても野蛮で下劣な行為だとおもっている。ありえないほどに鮮明に、あからさまに、時間から切り離して標本化するというのは、すごく人間的で傲慢な考え方だ。おれはなにかを伝えたいとか、これを表現したいとか、そういう大義名分もなく、ほんとうに自分の補助記憶として、あるいはピストルの引き金を引くことのかわりにカメラのシャッターを切るという趣味のためだけに行っている。大義名分があれば許されるわけでもないけど、少なくとも自分の中で芯となる強ささえない。恥ずかしく、生産性のないことをしているという自覚がありながらなおも行うという自堕落にも似た自分の恥ずかしさを隠そうともしない。